それから十年あまりのちの治承元年(一一七七)四月、京都に大火が発生し、京域の三分の一が灰塵に帰しました。
その中には平安京大内裏も含まれていましたが、それはあたかも王朝衰微の時勢を象徴するかのように、大内裏は二度と再建されることはありませんでした。
その三年後、時勢はさらに急テンポで乱世の様相を深めます。
同年五月、源頼政が以仁王の令旨を奉じて打倒平氏の兵を挙げたのです。
もっとも、頼政の挙兵は事前に平氏に察知されたこともあり、簡単に制圧されてしまいました。
しかしながら、頼政の捨て石的な挙兵が引き金となって、各地に潜伏中の源氏の決起が相次ぎ、いわゆる源平争乱期の幕が切って落とされます。
これは、平安朝四百年の平和が続いたあと、わが国が初めて体験した内乱の時代であり、闘いは奥州藤原氏の滅亡まで含めると、およそ十年間途絶えることがありませんでした。
しかも、源頼朝が最後の勝利を握り、東国に樹立した鎌倉幕府は、王朝の寄生木(やどりぎ)的性格を持った平氏政権と違い、明らかに王朝体制とは一線を画すものでした。
のみならず、実質的な権力は鎌倉幕府のほうが王朝を上回っていたため、武士と貴族の力関係はここにはっきり逆転することになり、内戦こそ終止符が打たれたものの、この未曾有の価値転倒によって乱世の質的深地は、一層促進されました。
こうした乱世の深まりもまた、多くの人々にとって、末法の世の到来の証として受け止められました。
特に、武士はさておき、王朝公卿とそれに連なる人々にとって、末法到来を最も痛切に実感させたものこそ、源平争乱と公武の勢力関係の逆転だったといえます。
こうして、末法の世が疑いもなく実現した以上、そこに新たな救済の道が開かれることの必然性があります。
つまり、観念としての末法思想にあわせ、眼前の現実としての乱世もまた、鎌倉新仏教の誕生を呼び起こす母胎だったのです。
そういえば、鎌倉新仏教の祖師の一人、親鸞聖人の前半生は、以上に見た王朝の零落と武士の台頭が相関して形成された乱世と、ほぼ重なり合っています。