ルバング島での30年間の戦争について、まず最初に考えたのは食糧の問題でした。
牧畜が盛んな島でしたから、飼われていた牛を銃で射殺して、腐敗しないよう、肉を一晩火にかけて燻製にしました。
主に、そうして出来た干し肉と、山すそのバナナ畑から取った青くて渋いバナナ、それからヤシの実でいのちをつないでいたんです。
また、軍の討伐隊が来るのを承知の上で、潜伏場所に人が入って来ないよう、山を占領している日本軍の健在ぶりを見せつけていました。
同時に自軍が島に入るための進入経路の確保もしなければなりませんでした。
討伐が始まると包囲の輪が狭められてきますから、一カ所にとどまることは出来ません。
一瞬の油断もできない毎日でした。
居場所についても問題でした。
あちらは、雨季と乾季がはっきりしており、雨季には生活に不可欠なたきぎを乾かすために小屋を作る必要がありました。
住民が近寄らない場所を見つけて小屋を作り、そこを離れる時は潜伏場所のデータを取られないよう、燃やしたり埋めたりして跡形もなく始末し、絶対分からないようにしていました。
私たちは毎日、朝昼晩の3食を食べていましたが、食糧といえば乾燥した肉とバナナ、ココナッツミルクしかありませんでした。
たまに、柚子や果物なども取りましたが、基本は同じ献立。
1日3食、1カ月間、毎日同じものです。
もう見るのも嫌になりますよ。
それから、やっかいなのは雨でした。
夜は泥の上に葉っぱを敷いて眠るものですから、雨が降ればずぶ濡れです。
いつ降るかも分かり増せん。
着替えもないので、いったん濡れると乾くまでずっと着ていないといけません。
特に寒い時期、12月1月の台風のときなどは本当に惨めです。
山で風雨にさらされて寝たら凍死してしまいますから、ガタガタ震えながら、部下と交代で背中から抱き合って朝まで過ごすんです。
絶対眠れません。
食事のことや雨の寒さなど、本当に苦しいときほど、冗談や負け惜しみを言っていました。
そうでも言わなければ、その苦しさに勝てないんですね。
苦しいときには顔をしかめてしまったら負けなんです。
そういう時こそ、笑わないと駄目なんです。
また、先の見通しが全くたたないことも精神的な苦痛でした。
15年ほどが経ち、あるとき最後の一人になった部下が、
「隊長、早く死んだやつの方が楽だったでしょうね」
と話しかけてきました。
動物のような生活の中で、終わりの見えない戦争を続けても、いずれ限界が来て、先に死んだ人たちと同じ姿になる。
それなら、早く死んだ方が楽だというのはよく分かるんです。
その頃になると
「60歳になった敵基地に突撃して、残っている弾を全部撃ち尽くして死のう」
などとよく話していました。
でも、弾薬はまだあるは、死ぬのはもったいない。
やってみなければ分からないという考えで、ぎりぎりの線で生きていました。