「親鸞聖人が生きた時代」10月(前期)

ところで、阿弥陀如来を救主とする浄土信仰は元来、その眼目が人間の死後の救済にありました。

前述したように、六道輪廻の苦患からいかにすれば抜け出しうるかというのが、主要テーマでした。

その観点から源信僧都は、人間界に生まれたいまこそ浄土往生の好機だとして、厭離穢土を勧めると共に

「臨終正念」

の大切さを強調されました。

厭離穢土とは、穢土つまり現世を厭い離れることであり、死に直面したそのときに、阿弥陀如来の本願を深く信じて、正しく念仏する心

「臨終正念」

を失わなければ、極楽に往生すること疑いなし、と言われるのです。

源信僧都の

「臨終正念」

の強調はまた、その意に反して、人々を異相往生という自殺による死へと駆り立てる主要な引き金ともなりました。

病気や事故による死と違い、自殺なら死の直前まで

「臨終正念」

を保てるからです。

源信僧都のこのような死後の世界への志向性は、だいぶ濃度は薄まったものの、法然聖人にも引き継がれました。

法然聖人の説かれる念仏には、死後の極楽往生を最優先する響きが少なからず見られます。

そのため、法然聖人に学ばれた親鸞聖人の教えも、ともすれば現世性が希薄で、来世偏重だと誤解される面がないともいえません。

けれども、果たしてそうなのでしょうか。

鎌倉新仏教のうち、浄土信仰とは逆に現世の生をいちばん重視したのは日蓮宗です。

日蓮上人は、そのことを

「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」

と表現しておられます。

娑婆とは現世、寂光土とは法華経の説く浄土を指し、大意を取れば、穢れの多いこの現世が、とりもなおさず仏の住む浄土である、というような意味になります。

ただし、

「現世=仏の浄土」

そのことは無論、いますぐ誰の眼にも明らかに映るというものではありません。

まだまだ障害は多すぎるが、法華経信仰があまねく行き渡り、人々がその教えを信じ、その法力に包まれて、より高い次元へと心を開発することに努めるならば、娑婆即寂光土は必ず顕現し、人は自分たちの生きている世界が実は仏の浄土でもあることに気付くであろうと、日蓮上人は説かれたのです。