聞くところによると、ヨーロッパには私たちが日頃口にしている
「恩」
という概念はないのだそうです。
自分のために何かしてもらった時に、その具体的な行為に対して感謝の意を表す
「ありがとう」
という言葉はあるのですが、今自分がこうして存在していることに対して深い恩を感じるというような、恩という感覚はないそうです。
また同様に、アメリカにも恩の概念はないのだそうですが、その一方で世代間の断絶ということをどのようにして越えて行くかということから、日本人の恩という言葉、あるいは恩という概念、その心が一番人間にとって大事なものなのではないかということで、ローマ字でそのまま
「ON」
と表記して恩の感覚や心を研究し、そういう感覚を人々に呼び覚ますための運動をしている学者の方もおられるそうです。
とはいえ、欧米の人々からすると、その
「恩」
の本家本元ともいうべき日本人の心から、いま恩という概念や感覚は次第に消えつつあるように思われます。
例えばある小学校で、給食の時間、食前食後に感謝の心を述べる
「いただきます」
「ごちそうさま」
という言葉を子ども達に唱和させていることに対して、PTAの会で一人の母親が
「親が給食費を支払っているのだから、子どもが給食を食べるのは保障されている当然の権利ではないか。
それなのに、食前食後に感謝の言葉を言わせるのはおかしい。
これからは、子どもに感謝の言葉を言わせることはやめさせてほしい。」
と、文句を言ったという話を聞いたことがあります。
「ありがとう」
の反対は
「あたりまえ」
です。
給食費を支払っているのだから、それを食べるのは
「あたりまえ」
のことで、当然の権利である。
したがって、食前食後に
「いただきます」
「ごちそうさま」
といった感謝の思いを表す言葉を述べる必要などない、というのがこの母親の論理です。
私たちは、自分一人の力でここまで成長を遂げたかのように思っていますが、果たしてそうだったのでしょうか。
ある女性が、次のようなことを述べておられます。
うちなあ、母親になって思ったんよ。
よくもまあ、みんな子どもを殺さずにやってるなあって。
だって、あんた本当に二十四時間介護やで。
それでもさあ、殺される子どもなんてめったにいない訳よ。
何だかんだ言いながら、大人になる。
すごいことだよね。
奇跡だよ奇跡。
近年は、わが子に対する虐待についての報道が連日ようになされていますが、その根底に人々の心から
「恩」
の感覚が失われつつあることが一因としてあるのではないでしょうか。
「恩」
とは、
「形のあるものを通して、形のない事実に心を開かれていくことである」
とも言われます。
それはまた
「おかげさま」
という言葉によっても味わうことができます。
私たちは、自らのいのちが、多くの生きもののいのちの犠牲と周囲の人々のご苦労によって支えられて来たことに心を寄せるとき、それを
「あたりまえ」
と言い得るでしょうか。
今こうして生きていることが、そのまま
「生かされている」
こと他ならないという事実に思いが至る時、それを
「おかげさま」
とか
「有ること難し」
と感じ、自然と
「ありがとう」
の言葉を口にするのではないでしょうか。
親鸞聖人は、その事実を
「知恩」
という言葉で明らかにしておられます。
今年も残り少なくなりました。
この一年を振り返ってみますと、周囲の方々によって支えられての一年であったように思われます。
もしかすると、そんな思いを年賀状に認(したた)めておられる方もいらっしゃるかもしれませんね。
私が頂いた、多くの
「おかげさま」や
「ありがとう」
を、来年こそは少しでもお返しできる私になれたら…と、思うことです。