『二河白道』

中国の初唐時代の善導大師が。

「二河白道(にがびゃくどう)」

としてよく知られている次のような譬えを述べておられます。

ある旅人が百千里の道を西に向かって行こうとすると、突然、目の前に火の河と水の河が現れます。

火と水の河の間には、細くて白い道が通っていますが、その白道は常に波におおわれ炎に焼かれており、到底、渡れるような状態ではありません。

しかも果てしない荒野に、他に人影は見られません。

そこに多くの盗賊や猛獣が現れ、この旅人が独りでいるのを見て襲いかかろうとしています。

先に進んでも、留まっても、引き返しても、旅人には

「死」

以外にはありません。

そこで旅人は、一つの決断をします。

この白道は私を渡すための道であるから、安心してこの道を前に進もう。

そう決断した時に、東の岸から

「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」

と勧める声が、また西の岸からは

「汝一心に正念にしてただちに来れ」

と喚ぶ声が聞こえます。

そこで旅人は意を決して白道を進み始めるのですが、そうすると群賊が、

「自分たちは、あなに害をなすものではない。

そこは危ないから引き返してきなさい。」

という甘い誘いの声が聞こえてきますが、旅人はその声に惑わされることなく進み続け、やがて西の岸に到り着きます。

釈尊の発遣(はっけん)の声弥陀の招喚(しょうかん)の

この

「二河白道」

の譬えは、私たちにいったい何を教えているのでしょうか。

端的には、日常生活における私たちの真の姿を明らかにしているのだと考えられます。

現代に生きる私たちは、科学の恩恵に浴し、豊かで明るく便利で快適な社会で家庭を築き、親しい友と語らって、生活を楽しんでいます。

また、私たちはほぼ例外なく自分自身を限りなく愛しています。

そのため、自分にとって好ましいものを取り入れ、自分にとって苦痛になるものを排除することに努めます。

表面的には、それが人間の幸福の姿だと考えられます。

ところが、そのような中でふと思うのです。

自分の生命、あるいは命の尊さとは何だろうかと。

それは、単に人間として存在する百歳の命ではなく、いかなる場合も無限に輝く命とは何かということです。

この求めが、

「二河白道」

では西に向かって行こうとする決断になる訳ですが、その瞬間、今まで自分を快適に包んでいた社会の全体が、まさに自分を惑わす場に転じることになります。

それが

「広々とした荒野」

と表現されます。

私たちは、常に多くの人々と親しく交わって生活しているのですが、それが娯楽・享楽を共にする仲間であればあるほど、その人を真実から遠ざける悪友であり、単なる死への道連れでしかないということを教えています。

さらに、自分の心に多くの惑いが生じ誘惑に負けそうになります。

この心に生じる迷い、具体的には貪欲(むさぼり)と瞋恚(いかり)が

「水の河・火の河」

に譬えられています。

私たちの現実は、真実を求めても、それに至る真実の行を成し得ません。

生を求めても幸福を願っても、不幸のどん底で死に陥らなければなりません。

私たちは、行くも・留まるも・引き返すも死というな

「三定死(さんじょうし)」

の状態に置かれた時に初めて

「今こそ真に生きたい」

と願うことになります。

そうすると、それまでの

「欲望の充足こそ幸福」

と錯覚していた生活の場では、全く無意味にしか聞こえなかった真実の声が、真実に生きようとする心には、まさしく自分を永遠に生かしてくれる声として、大きく響き渡ることになります。

これが、こちらの岸から

「行け」

という声が聞こえ、向こうの岸から

「来たれ」

という声が聞こえたということです。

このような状態に置かれて、人は初めて釈尊の教えを本当に聞くことが出来るのであり、阿弥陀仏の本願をそのごとくに信じることが出来るのです。

自分の心の中に釈尊や阿弥陀仏の声が聞こえたということは、白道が私のためにつけられていたということの証です。

白道は、阿弥陀仏の清浄なる願心によって、この私を仏果に至らしめるために開かれた道です。

したがって、阿弥陀仏の大悲に自分の全てを委ねて、その白道を安心して渡ればよいのです。