私たちは日常生活の中で、知らず知らずのうちに、よく仏教の言葉を使っています。
それは、私たちの生活の中に仏教の教えが溶け込んでいることの証だといえますが、それだけにもしその言葉が仏教本来の意味とは異なった意味に使われますと、仏教の思想そのものが人々から誤解を受けることになってしまいます。
困ったことに、仏教用語には、本来の意味とは異なった意味で使われている言葉が多く、そのために世間一般で仏教の教えとして理解されているものの、その内実は全く非仏教的なものが少なからずあったりします。
実は
「業」
という仏教用語も、その類の言葉の一つだと言えます。
「自業自得」
「業が深い」
といった言葉は、多分誰でも耳になさったことがあるのではないでしょうか。
例えば、自分自身が何か無理な計画を立てて、無惨にも失敗してしまった時。
あるいは、自分の人生に思いがけない不幸が重なったりした時によく耳にするようです。
したがって、業の語には何か非常に暗くて陰惨な響きがうかがわれ、しかもこの言葉は差別思想を生む原因にさえなったりしています。
人間生活を営む上において、他人が不利益な状態に置かれている時、その正しい原因を見るのではなく、
「それはお前の業が悪いからだ」
と、一方的に本人にその責任を覆い被せ、仕方のないことと諦めさせる、といった意図で用いられていたりします。
業は梵語(サンスクリット語)でカルマンといい、本来は
「行為」
という意味です。
私たちがある行為を行いますと、その行為によって結果があらわれます。
よい行為を積み重ねますと、よい結果、楽しい人生が開かれる場合が多く、逆に悪い行為には苦しい果報が待ち受けています。
そこで古代インドの人たちは、行為には必ず余韻が残るから、現在の結果を見れば、先にいかなる行為をしたかが分かると考え、そこに宿命論的な説を導き出しました。
これは、古代インドの差別階級である四姓(カースト)制度を生んだバラモン思想に基づくものですが、バラモンに生まれた者は前世で善き業を積んでいたからであり、奴隷に生まれた者は前世に悪業を重ねた結果だと説きました。
釈尊は、当時流布していたこの古代インドの業論を完全に否定し、
「人は生まれによってバラモンであったり奴隷であったりするのではなく、いま自分が何をなすかが重要である」
と示され、仏教教団においては、完全なる平等性が説かれました。
この場合、業は未来に向かっての努力を示す思想となるのですが、残念ながらその業論が後に宿業論と重なって、仏教思想でも再び宿命論的にとらえられるようになりました。
そこで、改めて親鸞聖人の業思想をうかがいますと、そこには大きな特徴が見られます。
親鸞聖人の業のとらえ方は『歎異抄』に
「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなし」
と述べられていますので、一見、宿命論的に見えます。
しかしながら、そこには業論一般とは根本的な違いがあります。
今日、仏教一般で
「業」
を問題にするとき、私たちの社会的な生き方が問題にされます。
それは現在に見る善悪や不幸の結果を、過去世の業と結びつけるあり方のすが、親鸞聖人はその一切を
「そらごとたわごと」
だと見て、むしろ私が人間に生まれたことに無限の悪業を見ておられます。
私がいまここにこうして人間として苦悩の中を生きているということは、未だかつて一度も迷いのいのちを離れることがなかったからであり、親鸞聖人にとっての善き業とは、その悪業を断ち切ってくださる念仏を申すということのみでした。
そこで、同じく煩悩具足の凡夫としての平等性を説き、
「われら」
の自覚において、一切の人々が共に等しく悪業を破るために、阿弥陀仏の大悲を仰がれたのだと言えます。