仏教には釈尊が滅せられてから、釈尊の教えは時代を経るにしたがって次第に廃れていくという歴史観があります。
釈尊は偉大に教師でしたから、当然、多くの偉大に弟子が育てられました。
けれども、弟子がいかに偉大であっても、釈尊と比べるとやはり大きく劣っているといわざるを得ません。
その偉大な弟子たちにも、また多くの弟子たちが集まり育てられて行きますので、それぞれに優れた弟子に育って行くのですが、その師に比べると、やはり劣ることはやむを得ません。
仏教には
「教・行・証」
という三つの綱格があります。
教とは、釈尊が説かれた仏になるための教え。
行とは、その教えによって仏になるための行道。
証とは、行道を完成させて得る仏の証果です。
そこで、仏弟子たちは釈尊の教えを一心に信じ、教えのごとく行じて証果を得ようと、懸命に励むのです。
釈尊の影響力は甚大で、釈尊滅後ほぼ五百年間は、仏の教えは偉大な弟子たちによって実践され、その行によって仏になるべき証果は得られていました。
そこでこの時代を
「正法(しょうぼう)」
と呼んでいます。
ところが五百年を過ぎますと、釈尊の影響力にも翳(かげ)りが見え始めます。
弟子たちの行道には真実の心が伴わず、行が真似事になってしまうのです。
したがってこの時代になりますと、誰一人として証果には至り得なくなります。
このような時代を
「像法(ぞうほう)」
と呼び、ほぼ千年間続くとされます。
さらに釈尊が滅して千五百年を過ぎると、もはや真似事の仏道を行じ得る仏教者さえいなくなってしまいます。
そこで仏教は大いに乱れ、世間には悪が満ちあふれます。
仏教からすれば、是は大変な時代だといわねばならず、もはや世も末ですから、これ以後の時代を
「末法(まっぽう)」
と呼びます。
日本では、1052年(永承7年)が末法元年とされたことから、平安時代の人々はこのことを強く意識すると同時に恐れ、盛んに経塚造営など行われました。
この時代は、貴族の摂関政治が衰え、代わって武士が台頭しつつあった動乱期で、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつありました。
また、仏教界も天台宗を初めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって頽廃していました。
このように末法の語る内容と現実の社会情勢とが一致していたため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるための教えが渇望されていたことが、鎌倉新仏教の開花にも繋がったと考えられます。
このような時代を生きられた親鸞聖人は、この末法の時代を深く悲しまれ、
『正像末和讃』に、
「釈迦如来かくれましまして二千余年になりたまふ正像の二時はおはりにき如来の遺弟悲泣せよ」
と詠っておられます。
鎌倉時代の仏道者たちは、自分たちの世をまさしく末法の真っ只中にあるとらえ、今の時代の仏教とは何かを真剣に求められました。
末法時代では、仏道は教のみで行も証も成り立ちません。
だとすれば、
「教」
の中に衆生が仏果に至ることの出来る行と証が含まれている仏教がここに出現することが求められます。
親鸞聖人の念仏の道は、その仏道を明らかに示しています。
南無阿弥陀仏という一声の念仏こそ、迷える私たち凡愚を救うために廻向された、阿弥陀仏の
「教行証」
の功徳の一切だと教えられているからです。
人はつまるところ、世俗的な自身の欲望を満たすためにのみ働き続けています。
その願いが、今日の科学文明の社会を生み出しました。
言い換えると、こうなればいいな、ああなったら良いのにということ、具体的には暑い夏は涼しく、反対に寒い冬は暖かい環境の中で過ごしたい、もっと早く長距離を移動したい、いつでもどこでも遠距離にいる人と話をしたい等々、多くの夢や希望を科学の力によって形に変えてきました。
これはこれでまことに結構なことなのですが、ではそれがいったい末法思想とどう関係するのでしょうか。
さて、人間の欲望の究極の結果である文明社会に、はたして真の意味で人類の未来があるかを考えれば良いのだと思います。
文明社会の破綻が、そのまま人類の滅亡を意味するとすれば、人はやはりその一方において、その怖さを真剣に見つめる必要があります。
そして、一人ひとりが、自分の愚かさに気付くことが必要だと言えます。
末法思想は、このような警鐘を人々に鳴らしているのだと思われます。