『蓮如上人御一代記聞書』
という、本願寺第八世・蓮如上人(1415-1499)のお言葉を記した書物の中に、次のようなことが記されています。
『“念声是一”という言葉がありますが、もともと念は心に思うことであり、声は口に称えることですから、これが同じであるというのは、いったいどのような意味なのかわかりません」
という質問があったとき、蓮如上人は
「心の中の思いは、おのずと表にあらわれると世間でも言われている。
信心は南無阿弥陀仏が心に届いたすがたであるので、口に称えるのも南無阿弥陀仏、心の中も南無阿弥陀仏、口も心もただ一つである」
と仰せになりました。』
また、親鸞聖人(1173-1263)は
『本願を信じ念仏を申さば仏になる』
と、仰っておられます。
「本願」
とは
「念仏せよ、救う」
という阿弥陀仏の喚び声ですから、それを聞いて信じた者は、必然的に
「南無阿弥陀仏」
を心に信じ、口に
「南無阿弥陀仏」
を称えることになります。
蓮如上人のお言葉は、この親鸞聖人のお言葉を踏まえてのものと思われます。
ちなみに、蓮如上人が生きられたのは室町時代、今から六百年ほど前ですが、この
「聞書」
の記述により、既にその頃から
「心の中の思いは、おのずと表にあらわれる」
と言われていたことが窺い知られます。
「有言実行」
「無言実行」
という言葉があります。
前者は
「自分で言ったことは必ず実行する」
後者は
「あれこれ説明することなく、自分が正しいと思うことを直ちに実行する」
ということです。
以前は、言葉にしなくても黙って自分の成すべきことをきちんとやり遂げるというあり方が文化として定着していたこともあり、前者が高く評価されていたのですが、現代社会においては、周りと約束した後に実行できてこそ、ビジネスや私生活において他人から信頼を勝ち取ることができるということから、どちらかと言えば後者が評価されているように窺われます。
ところで
「有言実行」
という言葉は
「無言実行」
に対するものとして、後から造られたということをご存知でしょうか。
一度宣言(有言)をしたのにそれを実行しないと
「有言不実行」
ということになります。
社会生活を営む上で、このように不誠実な態度は周囲に迷惑をかけ、当然のことながら人々の顰蹙(ひんしゅく)をかいます。
その一方、
「無言実行」
を試みて達成できなくても誰からも非難を受けることはありません。
「無言不実行」
の場合、黙っていたのですから、誰も達成できなかったことを知り得ないからです。
そうすると
「有言実行」
は、一度口にした以上実行しなければ非難を受けるのですから、もしかすると
「無言実行」
よりも達成率は高くなるかもしれません。
そのような経緯から、
「有言実行」
という言葉は造られたのではないかと思われます。
そのため、つい
「有言実行」
よりも
「無言実行」
の方が、楽に思える時があります。
けれども、心は誰にも見えませんが、その人の心遣いは、行いや言葉によって見えます。
また、あたたかい心も、やさしい思いも行いによって初めて見ることが出来ます。
その反対に、冷たい心や、思いやりのなさも、行いによって見えてしまいます。
時として私たちは、心の中は他人からは見えないのだから、何を思ってもかまわないと考えしまいがちです。
しかし
「表面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われること」を
「偽善」
と言います。
したがって、心は行いによって見えるのですから、行為さえ取り繕えば良いという訳にはいきません。
良い心も、悪い心も、
「行い」
によって表れることを忘れずに生きたいものです。