「悪人正機」
とは、
「悪人こそが、阿弥陀仏の大悲によってまさしく救われる人間である」
という意味です。
「機」
という文字は、端的には人間を意味し、
「機械(細かいはたらきをする道具)」
「機敏(心のすばやいはたらき)」
「機運(ものごとの起こるきっかけ)」
といった熟語になります。
あるきっかけによって、そのものが動きはたらく、といった意味が読み取れますので、仏教では、仏の教えを聞き学んで、その教えに心が動かされて、仏道へと導かれる可能性のある者を
「機」
と呼んでいます。
そうすると
「悪人正機」
とは、阿弥陀仏の教えに出遇い、歓喜して救われたいと願う者が、まさしく悪人だといっていることになります。
これは、いったい何を意味しているのでしょうか。
『歎異抄』に、親鸞聖人の
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
という言葉が示されています。
これは、善人でさえ阿弥陀仏の本願に救われるのだから、悪人はなおいっそう阿弥陀仏に救われる人ある、と言われているように窺えます。
ところで、ここで少し首をかしげる方がいらっしゃるかもしれません。
道徳は、善をたたえ悪をきびしく否定します。
宗教もまた、悪をきびしく誡めるのですが、悪そのものを徹底的に排除するものではなく、その悪を善に改めて救うという方向性を持ちます。
そこで、宗教は道徳より、深くて広いとされるのですが、とはいえ、真実の宗教で道徳を無視したり、悪をたたえたりする宗教は有り得ません。
ところが、親鸞聖人の言葉を文面通り受け取る限り、どうしても悪が重視・肯定されているように思われるのです。
ここで私たちは、自分自身の未来の姿をどのように見つめているかに注意したいと思います。
例外なく、自分は
「よき者」
であるとして、自分をとらえているのではないでしょうか。
謙遜して、
「私は悪人です」
「愚か者です」
と言っている人はいますが、その本人が他人から馬鹿にされたら、やはり我を忘れて怒ることになるからです。
そして、この
「よき者」
と思っている私たちの一人ひとりが、実は他人を無意識の内に傷つけたり、貶めたり、社会や世界を破滅に追いやろうとしたりしているのです。
それは、自身の本質が、実際はどうしようもない
「悪」
の中にあることを意味しています。
だとすれば、人間として最も重要なことは、自らが真の意味で自己の根元的な悪の世界に気付くことだと言えるのではないでしょうか。
そこで初めて人は、自分が全宇宙の中で、いかに小さく惨めな存在であるかということを覚知すると同時に、この私を救うべき無限の教えを求めることになるのです。
阿弥陀仏の教えとは、この求めにまさしく応え、このように求める者をこそ救う教えなのです。