龍樹菩薩は、この世に
「出世間」と
「世間」
の二つの道があると説かれ、前者が菩薩道であり、後者が凡夫道だとされます。
菩薩道は、二度と迷うことのない仏果への道を邁進することになるのですが、凡夫道は常に生死の中にあって、永遠に迷い続けなければならないとされます。
道綽禅師は、仏道には聖道門と浄土門という二つの道があるとされます。
聖道門とは聖者が行ずる仏道で、この世で仏になることを目指しています。
それに対して浄土門は、この世では仏になれない凡夫の仏道で、この者たちは次の世、阿弥陀仏の浄土で仏になることを願っているとされます。
仏教者であれば、誰でもこの世で仏になることを願います。
そうであれば、普通は聖者の道が選ばれるのであって、本来的に、仏道といえば聖道門が仏教の本道だといえるかもしれません。
けれども
「この世で仏になる」
という一点を見つめますと、果たして
「誰がその聖者の仏道を完成させて仏になれるのか」
という疑問が生じます。
なぜなら、今日そのような仏道を実践している聖者を見ることは出来ないからです。
既に隋の時代の道綽禅師が、今は末法であって、煩悩に満ちた愚かなる凡夫のみの世であるから、聖道門は成り立たない。
浄土門のみが仏果に通じる唯一の仏道であるとおっしゃっておられます。
「凡夫」
とは、いわば聖者の落ちこぼれなのです。
けれども、凡夫のみの世であれば、当然この世で仏になることは出来ませんから、凡夫にとって仏になることのできる道は、必然的に次の世、阿弥陀仏の浄土に生まれて仏になることを願う浄土門のみになるのです。
そこで
「凡夫」
とは、煩悩にとらわれて、迷いから抜け出せない衆生という意味になります。
この凡夫の姿を、親鸞聖人は『一念多念文意』に、
「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかりはらだち、そねみねたむこころ、おおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」
と、述べておられます。
ところで、仏教における求道の厳しさは、深く自分を省みることで、自らの愚かさを恥じらい懺悔することにあるとされます。
この慙愧することこそが、人間にとって最も重要なことなのですが、この心を凡夫は持つことが出来ないのです。
善人である自分は見えても、悪人である自分はなかなか見えません。
人々は自らの正義を主張し、平和な世界を願い、平等になることを求めます。
この場合、誰もが自分自身を
「間違いを犯していない、戦争には絶対反対だ、差別はしていない」
という立場に置きます。
けれども、たとえ他人のために一心に善を尽くしたとしても、その人を不幸にしてしまうことがあります。
平和を叫びながら、互いに争っているのが現状です。
また、この世に嫌なヤツが一人もいないという人などいません。
他人に対して、完全に平等に接することなど不可能です。
このような人間の行いを
「雑毒の善・虚仮の行」
といいます。
私たちは凡夫は、毒をまじえた善、間違いを含む行為しか出来ません。
人間としての善行に励みながら、その自分の
「凡夫」
の姿を仏さまの教えに照らして見つめることが求められます。