平成24年11月(中期)
♪何が君の幸せ何をして喜ぶ
答えられないなんてそんなのは嫌だ♪
これは、長きに渡って幼児に絶大な人気を誇る
「アンパンマン」
の主題歌のフレーズです。
人間は誰もが、生まれた以上は幸せになりたいと思っている存在だと言えます。
また、科学の発達はそのような人間の願いをかなえるための歴史であったとも言うことができるように思われます。
ところで、私たちはどのような時に自分は
「幸せだ」
と感じるでしょうか。
また、反対にどのような時に
「不幸せだ」
と歎くでしょうか。
考えてみると、同じ状態であっても、自分より幸せに暮らしている人を見ると自身は不幸せであるように感じますし、自分より不幸せな暮らしをしている人を見ると自身は幸せであるように思えたりもします。
つまり、私たちの
「幸せ」
は、いつも他人との比較の中で考えられ、揺れ動いているのではないでしょうか。
仏典に
「猿智慧」
の話がありますが、それは次のような内容です。
ある海岸に近い山の中に、五百匹を超える猿が住んでおり、それは鬱蒼(うっそう)と繁った森の中で生活をしていた。
ところがある日、太陽に輝く彼方の海をじっと眺めていると、寄せては返す大波小波が、目もまばゆいばかりに明るさと輝きを示している。
それをいつも見ていた猿達は、やがて自分の棲んでいるところが、暗くて鬱陶(うっとう)しい森の中であることが耐え難くなった。
「あの彼方に大きくうねってくる波の山、あれは宝石を散りばめたように美しく輝いている。
おそらくあそこへ行ったならば、あの輝きにふさわしい生活があるだろう。」
こう考えて、勇気のある若い猿が自分達の棲んでいる森を抜け出して、大きく輝いている波の山の中へ飛び込んで行ってしまった。
ところが、その若い猿は、飛び込んで行ったきりいつまでたっても帰って来ない。
その帰って来ないことに気が付いた他の猿達は
「それ見ろ、あそこはとても美しい美しいところだから、あいつはその幸せを独り占めして幸福にひたっているに違いない。
だから俺達を呼びに帰っては来ないのだ。
だいたい、あいつはもともと狡賢い奴だったから、今頃は独りで楽しい生活をしているに違いない。
あいつに独り占めさせてはならない。
それ急げ!」
という訳で、五百匹の猿が次から次へと波の山の中へ飛び込んで行ったが、ついに一匹も帰ってこなかった。
この話から、私たちの幸福を求め理想を追うという心の中には、猿智慧が隠されているということを教えられるような気がします。
「隣の花は赤い」
とか
「隣の芝生は青く見える」
と言われますが、それは、私たちはいつでも他人と比べるところでしか幸せを考えていないということです。
けれども、そのようなあり方においては、結局
「空しかった」
という言葉で、私の人生の全てが惨めに砕け散ってしまうことにならざるを得ません。
考えてみますと、私のいのちは、私には自らが作ったという覚えもなければ、頼んだという覚えもないのですが、今ここにこうして私を生かしめています。
そして、たとえ自らに絶望して
「死にたい!」
と思っても、胸の鼓動は
「生きよ!」
と力強く働いています。
そうすると、他の誰でもなく、この私が自身のいのちを喜ぶということがなければ、本当の意味での喜びを得るということはできないのではないでしょうか。
それは、自分が自分に生まれて良かった、私が私の人生を生きていくということに安んじて生きていける、誇りを持って生きて行けるという事実に出遇わなければ、本当の意味での幸せを手にすることはできないということです。
「必要にして十分な人生」
という言葉があります。
私たちの人生には無駄なことなど一つもないということですが、それは嬉しいことや楽しいことだけではなく、辛いことや悲しいことも、その一つひとつが私の人生を彩ってくれていることを教えている言葉です。
そして、そのような人生を生きることに目覚めた時、私たちは人生で出会うすべてのことに感謝をしながら生きていくことが出来るようになるのだと言えます。
そして、ここに幸せだから感謝するのではなく、感謝できることが幸せであると思えるような人生が展開していくのだと思われます。