「ゆうべの使者から、あらましのことは、お聞き取りと思うが――」
浄憲の眼は、しきりと、廻廊や南苑の人影へうごく。
人が来ないとみると、小声で、早口にことばをついで、
「どうじゃ、何とみらるる、平家の暴状、癪(しゃく)ではおざらぬか、忌々(いまいま)しゅうは思われぬか、小松重盛を左大将に、これは、まあ我慢もなるとして、その次男坊の宗盛――木偶に冠じゃ――猿に履(くつ)じゃ。
それを一躍、徳大寺や花山院の諸卿をとび超えて、右大将に任ずるとは、なんと、阿呆(あほ)らしい――」
白馬が、遠くでいなないた。
浄憲は、眸の小さい眼で、ぎらりと、あたりを見た。
「――この手で、まだまだ、勝手気ままに、清盛入道は、叙位除目を私するじゃろう。
おそれ多いが、お上(かみ)も、あるやなしの振舞、いわんや、我々輩をや」
「……ちと、今日は館に、約束の客も待たしてもあれば」
「まあ」
と、浄憲は、範綱の袖をとらえて、
「それと、これとは、事の大きさが違いましょう。
貴所も、院の御信任あさからぬ臣下の御一名ではないか」
「こういう所では」
「いや、改まった場所では、すぐ、平氏の者がうるさい。
……ではご一言、伺っておこう。
新大納言のお考えに、そこもとは、ご加担か、お断りの肚かを」
「今は、申しかねる」
「二心おもちか」
「いや」
「さなくば、仰せられても、さしつかえおざるまい。
かほどまで、平家の門葉にばらに蹂(ふ)みにじられ、無視されても、腹のたたぬやつは、うつけか、畜類でおざろうぞよ」
「…………」
「法皇とても、おなじお気持でいらせられる。
御気しきにこそ出されぬが、お憤りはどんなにか、鬱積(うっせき)していらるるのじゃ。
そものうては、新大納言はじめ、われらどう歯ぎしりしたところで、うごきはせぬ。
……」
「…………」
「加盟にお拒みあることは、せんずるところ、法皇の御意にそむき奉ることにもなる……それでも、ご不承か」
「考えておきます」
「ゆうべも、そう仰せられたままと聞く」
「大事の儀は、大事に考えねば、ご返答はなりませぬ」
「賢いの……六条どの」
「さようか」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
浄憲法師は、嘲(あざ)むがごとく笑って、ついと、背を向けた。
「では、いずれ再度――」
すたすたと奥へ衣さばきを切って行った。
ほっと、虎口をのがれた気もちである。
範綱は、誰にも会いたくない気がして、いそいで、院の門を出た。
車寄せには、誰彼の参内の諸卿の牛輦(くるま)が、雑鬧(ざっとう)していた。
舎人や、牛飼たちが、口ぎたなく、陽あたりの下に争っている。
「箭四郎、箭四郎」
供待ちへ、こう呼びたてて、範綱は、あわただしく牛輦の裡へかくれた。
そして、揺られてゆく途々(みちみち)に、ふとまた、不安なものを感じてきた。
法皇のおことばに、もしや表裏があるのではないかという点だった。
浄憲法師には浄憲へいうように、また自分には自分に対して下されように、扱(あし)らわれているのではないかという疑念である。
なぜならば、策士にかこまれている法皇御自身がまた、ひとかどの策略家でいらせられるからであった。