小説 親鸞・紅玉篇 2月(2)

「ゆうべの使者から、あらましのことは、お聞き取りと思うが――」

浄憲の眼は、しきりと、廻廊や南苑の人影へうごく。

人が来ないとみると、小声で、早口にことばをついで、

「どうじゃ、何とみらるる、平家の暴状、癪(しゃく)ではおざらぬか、忌々(いまいま)しゅうは思われぬか、小松重盛を左大将に、これは、まあ我慢もなるとして、その次男坊の宗盛――木偶に冠じゃ――猿に履(くつ)じゃ。

それを一躍、徳大寺や花山院の諸卿をとび超えて、右大将に任ずるとは、なんと、阿呆(あほ)らしい――」

白馬が、遠くでいなないた。

浄憲は、眸の小さい眼で、ぎらりと、あたりを見た。

「――この手で、まだまだ、勝手気ままに、清盛入道は、叙位除目を私するじゃろう。

おそれ多いが、お上(かみ)も、あるやなしの振舞、いわんや、我々輩をや」

「……ちと、今日は館に、約束の客も待たしてもあれば」

「まあ」

と、浄憲は、範綱の袖をとらえて、

「それと、これとは、事の大きさが違いましょう。

貴所も、院の御信任あさからぬ臣下の御一名ではないか」

「こういう所では」

「いや、改まった場所では、すぐ、平氏の者がうるさい。

……ではご一言、伺っておこう。

新大納言のお考えに、そこもとは、ご加担か、お断りの肚かを」

「今は、申しかねる」

「二心おもちか」

「いや」

「さなくば、仰せられても、さしつかえおざるまい。

かほどまで、平家の門葉にばらに蹂(ふ)みにじられ、無視されても、腹のたたぬやつは、うつけか、畜類でおざろうぞよ」

「…………」

「法皇とても、おなじお気持でいらせられる。

御気しきにこそ出されぬが、お憤りはどんなにか、鬱積(うっせき)していらるるのじゃ。

そものうては、新大納言はじめ、われらどう歯ぎしりしたところで、うごきはせぬ。

……」

「…………」

「加盟にお拒みあることは、せんずるところ、法皇の御意にそむき奉ることにもなる……それでも、ご不承か」

「考えておきます」

「ゆうべも、そう仰せられたままと聞く」

「大事の儀は、大事に考えねば、ご返答はなりませぬ」

「賢いの……六条どの」

「さようか」

「ふ、ふ、ふ、ふ」

浄憲法師は、嘲(あざ)むがごとく笑って、ついと、背を向けた。

「では、いずれ再度――」

すたすたと奥へ衣さばきを切って行った。

ほっと、虎口をのがれた気もちである。

範綱は、誰にも会いたくない気がして、いそいで、院の門を出た。

車寄せには、誰彼の参内の諸卿の牛輦(くるま)が、雑鬧(ざっとう)していた。

舎人や、牛飼たちが、口ぎたなく、陽あたりの下に争っている。

「箭四郎、箭四郎」

供待ちへ、こう呼びたてて、範綱は、あわただしく牛輦の裡へかくれた。

そして、揺られてゆく途々(みちみち)に、ふとまた、不安なものを感じてきた。

法皇のおことばに、もしや表裏があるのではないかという点だった。

浄憲法師には浄憲へいうように、また自分には自分に対して下されように、扱(あし)らわれているのではないかという疑念である。

なぜならば、策士にかこまれている法皇御自身がまた、ひとかどの策略家でいらせられるからであった。