小説 親鸞・紅玉篇 2月(5)

にこと笑って、

「――これは甘そうですね」

曲者は、桜の実の一顆(ひとつぶ)を口にいれて、ぽつりと噛んだ。

永い牢獄の飢えと苦熱に渇いた舌に、一顆の桜の実の汁が、何ともいわれない物の味を走らせた。

思わず、四顆、五つ顆。

「これは、うまい」

むさぼるように、掌のうえの紅玉を口へ入れて、胚子(たね)を吐きちらした。

食物にも、人情にも、渇き切っているらしい曲者のよろこびかたを見ると、十八公麿は、どこかへ走って行った。

やがてまた、そこへ戻ってきた彼の手には、草紙の反古(ほご)につつんだ麦菓子がつつまれていた。

「お食べ。

――お菓子」

「えっ」

牢格子の隙間からそれを見た曲者の眼は飛びつくように光っていた。

「私に菓子を下さるのですか。

ありがとう!こういう所に永く押し込まれていると、気が狂うほど、甘い物が、欲しくなります。

……ああ、ありがとう!」

おののく手にそれを取ると、獣が人の跫音(あしおと)を憚(はばか)るように、四辺(あたり)を見まわして、口の中へ一つを押し込んで、残りを懐中(ふところ)へかくしてしまった。

十八公麿は、去りがてに、その前へしゃがみこんで、

「曲者さん、おいしいの」

「はい、これで、死んでもようございます。

食物に飽いている平常(ふだん)頭では考えられないほど、食物の尊さがわかりました。

ああうまかった」

舌つづみを打って、

「慾には、これで、家にいる妻子の顔を一目見て死にたいと思いますが、それは煩悩と申すものですから諦めています」

「…………」

「和子様、私が首を斬られたら、どうぞ、私の髪の毛を一すじ切って、御門の外へ捨ててください。

――西風のふく日に、私の髪の毛は、妻子のいる家へ帰ってゆきます」

「おまえは、そんなに、妻子の顔が見たいのかい」

「それは、和子様でもお分かりになるでしょう。

もし、和子様のお父上が、よそへ行ったまま、いつまでも帰らなかったら、和子様はどう思いあそばすか」

「…………」

十八公麿は、突然、牢格子へ手をかけて、そこを押した。

しかし牢は開くはずもなかった。

「和子様、和子様、何をするのですか」

「おまえを、ここから、出してあげようと思って――」

「飛んでもない」

曲者は、首を振った。

「私が、牢を破って逃げたらば、新院の大納言や北面の武士たちから、あなたのお父上は、裏切者と睨まれて、お生命はありません」

「では、おまえは、ここを出たくはないの」

「出たいのは山々です。

……けれど、私が助かれば、和子様のお父上に迷惑がかかると思うと、逃げる気にもなりません」

曲者は、そういって寂然と首をたれていたが、やがて首を上げると、発狂したように、牢の外へ向って呶鳴った。

「お館のうちへ申し入れる。

どなたなりと、お出でください。

火急申しあげたいことがござる!どなたなりと、お出合いください!」