親鸞・紅玉篇 3月(8) 炎の辻

次の日から、十八公麿のすがたは、雨の日も、風の日も、欠かさずに、学舎に見えた。

師の日野民部忠経(ただつね)は、元南家の儒生で、儒学においては、朝(ちょう)に陰陽師の安倍泰親、野に日野民部といわれるほどであったが、磊落(らいらく)な質(たち)で、名利を求めず、里にかくれて、児童たちの教育を、自分の天分としていた。

民部は、十八公麿を、愛した。

日のたつに従って、その天稟(てんぴん)を認めてきた。

【これこそ、双葉の栴檀(せんだん)だ】まったく、十八公麿の才能は、群をぬいていたむしろ、余りにも、ほかの児童と、かけ離れ過ぎているくらいなのである。

で児童のうちにも、嫉妬はある。

がたがた車

がたがたぐるま

貧乏ぐるまの

音がする――

学舎の往き帰りに、さかんに、そんな歌がうたわれた。

まったく、十八公麿のような古車で通ってくる者は一人もいない。

家の近い者は、従者に、唐傘をささせて来たり、綺羅(きら)びやかな沓(くつ)をはいて通うし、遠い者は、蒔絵(まきえ)車や螺鈿(らでん)車を打たせて、牛飼にも衣装をかざらせ、

「おれの牛は、こんなに毛艶がよいぞ」

と、牛までを誇った。

そうした中に、学舎のうちでも最もとしうえ一人の生徒がいた。

十八公麿はわすれていたが、お供の介は見覚えていた。

小松殿の御家人、成田兵衛の子である。

まだ十八公麿が日野の館にいた頃、強(したた)かな仇をした小暴君の寿童丸なのである。

寿童は、知っていた。

虫が好かないというのか、いまだに、あのことを根にもっているのか、とかく、意地がわるい。

そして、

貧乏車の音がする――という歌を流行らせた発頭人(ほっとうにん)も彼であることが、後にわかった。

「介、あの悪童が、張本じゃ、和子様のため、何とかせねばいかぬ」

「うむ、懲らしてくれたいとは思うが」

「一つ、この拳固(こぶし)を、馳走してやろうか」

「よせよせ」

箭四郎が、しきりと逸(はや)るのを、介はあぶながった。

介も、当然、憎々しくは思っているが、いかんせん、平家のうちでも、時めいている権門の子だ、侍の子だ、それに、学舎に通ってくるのでも、毎日五、六人ずつの郎党が車についてやってくる、撲りなどしたら、自分の首があぶないし、第一に主人の身にも災難のかかるのは知れている。

また、寿童丸の郎党たちも、傍若無人である。

主人の子の学業が終わるのを待っている間には、近所の里の女をからかったり、石つぶてで、雀を打ち落として、供待部屋(ともまちべや)の炉で炙(あぶ)って喰いちらかしたり、はなはだしい時は、こっそり、酒などをのんでいる。

そして、

「おい、介、公卿奉公もよいが、選(よ)りに選ってお牛場の落魄(おちぶ)れ藤家などへ、なんで、物好きに住みこんだのだ。

おれの主人の邸(やしき)へ来い、厩(うまや)掃除をしても、もうちっと、身ぎれいにしていられるぞ」

などと、無礼をいう。

【よせ。かまうな】と、介は、そのたびに、箭四郎を眼で抑えていた。

箭四郎の方が、年上であるけれど、介がいつも止め役だった。

若い血気さにおいては、当然、介の方が先に逸るべきであるが、彼には、以前の苦い経験があるので、じっと虫を抑えているのであった。