『すべてのものは移りゆくおこたらずつとめよ』(後期)

お釈迦様(釈尊)は80歳で、涅槃に入られましたが、最期の最後まで仏法を説かれました。

よく世間では

「秘伝」

ということが言われますが、釈尊の教えには、これはあなただけに伝えますという秘伝はなく、釈尊は握りこぶしを開いて、私は全てを伝えきりましたと、語ったとも言われています。

そのご説法の最後の言葉が、

「すべてのものは移りゆくおこたらずつとめよ」

という意味の言葉であったと伝わっています。

まず「無常」ということについて味わってみましょう。

「無常」といえば、『平家物語』冒頭の

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす、おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し」

という名文を思い起こします。

このフレーズは、

「諸行無常」

という教えを日本人のDNAに刻みこむ役割を果たしました。

しかし

「盛んなる者は、必ず衰える」

という、マイナスイメージのみを刷り込むことになってしまい、

「諸行無常」

の全体像(大切な一面)を見失うことにもなりました。

それは

「すべてのものは絶えず、移り変わる」

からこそ、今よりもっと

「成長」「上達」「習得」

していけるという、プラス面です。

子どもが大きくなるのも、技能が上達するのも、資格を取れるのも

「無常」だからです。

「成長」していくのも

「老化」していくのも、

「常住」ではなく

「無常」だからです。

一時もとどまることがないからこそ、怠けることなく、精進、努力をしなければならないともいえます。

まさしく

「おこたらずつとめよ」です。

先日、ご法事でご門徒のお宅にお参りした時に、お仏壇の隣に、瀬戸内寂静さんの言葉が張られていました。

「晴れた日も続かなければ、曇りの日も続かない。

良いこともあれば、悪いこともある。

これを『無常』と申します」

という意味の言葉でした。

確かにその通りだな、と思い、ご法話でそのことについてお話をしました。

その際に、付け加えたことは、日々の暮らしの中では確かに、

「良いこともあれば、悪いこともある」

が、望みをかなえるためには、

「おこたらずつとめる」

ことが何よりも大切であり、本人は適当に怠けておきながら、良い結果のみを期待するのは、本末転倒(因果応報に背くこと)であるということでした。

しかし、

「言うは易く、行なうは難し」

で、かくも有り難く法話をしました私の日常生活をふりかえれば、お恥ずかしいことに、どのようにしたら要領よく、楽をして生活ができるだろうかと、頭をひねっている毎日と言わざるを得ません。

「懈怠」(なまけること)と

「放逸」(手をぬくこと)が頭から離れません。

ですから、

「おこたらずつとめよ」

とのご説法は、私には実に耳の痛い言葉と言えます。

でも、そんな私でも

「おこたらずつとめる」

ことの大切さは、私なりにわかっているつもりですので、何とか辻褄をあわせて

「懈怠」

「放逸」

に押し流されることなく、

「おこたらずつとめる」

ことの≪まねごと≫を心がけているところです。

そのような中、昨今、気になることがありますので、触れてみたいと思います。

よく、この頃、テレビや新聞等において、スポーツ等で実績を残した著名人(金メダリスト等)の講演会の一部が紹介されていますが、私の知る限りにおいてではありますが、

「目標をもって努力して下さい。努力すれば必ず報われます。」

という趣旨の報道がよくあります。

確かに前向きで、力強い発言ですが、その反面、現実はそんなに甘くないと思っています。

人生は思うようにいかない

「苦」の世界です。

あえて言えば

「確かに人一倍、努力したのでしょうが、その努力が報われた結果において、必ず報われますよと語っているに過ぎないのではないか」と。

現実に即して言えば

「努力しても報われる場合と、報われない場合がある。結果がでないこともあり、全ては縁事でしかない。」

「努力しても、必ず報われるわけではない。でも努力しないと報われない。」

かくいう私が

「懈怠」

「放逸」

の身ですから、説得力もなく、限りなく

「言い訳」

に近くなってしまいます。

そこで、最後に、浄土真宗の僧侶でもある山崎龍明先生のお話を紹介しておきます。

「仏教には≪精進≫という語があります。

努力は結果を求めるもの。

≪精進≫とは努力そのものに意味を求めるもの。

つまり結果を前提としないということです。

ここでは結果がでなくても、その努力は無駄だったと落ち込むことはありません。

結果がでても、でなくても、そのことに満足する世界には安らぎがあります。

よろこびがあります。

一切に無駄はないという開かれた世界です。」

とても大切な視座を頂きました。

プロスポーツ等の世界では

「結果が全て」

とよく聞きますが、どうやら仏教の視座とは違うようです。

釈尊が

「すべてのものは移りゆくおこたらずつとめよ」

と語られた最後のご説法は、<精進>することの尊さを教えて下されたのだと味わいました。