親鸞・登岳篇5月(10)

「お師さま。きのう仰っしゃったおことばは、嘘ですか」

慈円は、慈円は、笑いながら、首をふった。

範宴はたたみかけて、

「――でも、きのうは、供をゆるすと仰っしゃりながら、今朝は、知らぬ顔をして、お山へ立って行こうとなさるではございませんか」

「…………」

慈円はまた顔を振った。

「忘れたのじゃよ」

やむなく、僧正はこういって、範宴をつれてゆくことに、肚をすえてしまったようであった。

しばらく行くと、雪の中に、性善坊が立っていた。

彼は、ゆうべからの範宴のすることを知っていたが、自分が生なかなことばを挟んでは、かえって、範宴の意志が徹らぬようなことになるであろうと、わざと知らぬ顔をして、先へ廻って待ちもうけていたのである。

範宴の登岳をゆるした以上、当然、性善坊の供をゆるさぬわけにはゆかなかった。

で、そこから僧正についてゆく供の弟子僧は、すべてで五名になった。

雪は、吹きつのってくるので、

「今日は、麓口でおやすみになって、明日でも、雪の霽(あ)がるのを待ってから、お登りになっては――」

と、供僧のうちで、いう者が会ったが、気性のはげしい、そしてまだ若い僧正は、

「なんと」

と、脚もとめないのであった。

もっとも、新座主の登岳は、今日ということに、半月も前から叡山へは通牒(つうちょう)してあるので、それを違えれば、中堂の人々や、一山の大衆に多大な手ちがいをかけなければならないから、

「では」

と、供の者も、強(た)ってとは、止めることもしなかった。

「おうーい」

後ろで、誰か呼ぶような気がするので、五名は振り向いた。

白い光の縞が・斜めに天地をかすめている。

遠くからながめると、飛んで白鷺(しらさぎ)とも見える二つの蓑笠(みのかさ)をかぶった者が、

「おうーい」

声をあげつつ、来るのであった。

「誰だろう?……」

しばらくの間、雪にふきつけられたまま、五名は佇んで待っていた。

蓑笠の二人はやがて、近づいてきて、

「その中に、少納言どのは、おいであるか」

と、いった。

「はい」

範宴は、答えて前へ出た。

「おお」

と、蓑を刎ね上げて、一人は前へすすみ、一人は、雪の中に、手をつかえた。

彼の小さい手を、握りしめた人は、彼の儒学の師範であった日野民部忠経だった。

うしろで、手をつかえているのは、この間、範宴がかたみぞといって植髪の坐像をもたせて帰した六条の召使、箭四郎なのである。

「先生」

範宴は、思いがけなかったように、そして、欣(うれ)しさに、こみあげらるように、瞼(まぶた)を赤くした。

民部は、ことばに力をこめて、

「たった今、青蓮院へ伺ったところが、かくのことに、追ってきたのじゃ。

箭四郎をも、誘ってきた。

――六条どのは、わざと来ぬが、くれぐれも、身をいとしめとのお言伝て……。

修行の一歩、こなたも、欣しく存ずる。

誓って、勉学しなければなりませぬぞ」

「はい」

怺(こら)えていたものを、範宴は、ぽろりと一雫、こぼしてしまった。