小説 親鸞・登岳篇 6月(1)

性善坊は、そばから、

「範宴さま。先生のお気もちや、お養父君のお心を、お忘れあそばすな」

範宴は、うなずいて、

「はい」

といった。

そして、

「忘れません。きっと、勉学して、お目にかかります」

「和子さま」

箭四郎は、にじり寄って、雪の中から彼の笠のうちを見上げた。

「おからだを、お大事に遊ばせや」

「あい。……お養父君や、弟にも、からだを気をつけてあげておくれ。……おまえも」

「……」

箭四郎は、顔を俯伏(うつぶ)せたまま、降る雪を、背につもらせて、泣いていた。

「参ろうぞ」

慈円は弟子僧たちを、うながして、先へあゆみ出した。

範宴はあわてて、

「さようなら」

「おさらば」

と、日野民部が去った。

「和子さま」

箭四郎は、立ち上がって、もいちど大きく呼んだが、声は、風と雪に攫(さら)われて、宙にふかれてしまった。

――後ろも見ずに、範宴は、先へゆく師の房と弟子たちの後を追って走ってゆくのであった。

幾たびか、雪にまろんで。

そして、叡山口へかかって行く。

山らにかかると、山はなおひどかった。

師の慈円をはじめ弟子僧たちは、誰からともなく、経文を口に誦して、それが、音吐高々と、雪と闘いながら踏みのぼってゆくのであった。

範宴も、口の裡で真似て、経を誦した。

はじめのうちは、声も出なかったが、いつのまにか、われを忘れていた。

辷(すべ)っても、ころんでも、傍(はた)の者は、彼をたすけなかった。

性善坊ですら、手をとって、起こしてはやらないのである。

それが、師の慈悲であった。

弟子僧たちの友情なのであった。

「――誰か知る、千丈の雪」

慈円は、つぶやいた。

「おつかれになりませんか」

弟子僧たちがいたわると、

「なんの」と、首を振られるばかりであった。

範宴は、おくれがちであった。

雪が、雪の中をころがって行くように、峰を這った、谷道を越えた。

性善坊は、後ろについて、

「もうすこしです」

と励ました。

「大丈夫」と、範宴はいう。

幾たびか、ころぶので、竹の杖をにぎっている指の間から血が出ていた。

それでも、

「大丈夫」と、いうのである。

なんという意志の強さだろう、強情さであろう、負けん気であろう、そして、熱情だろう――と性善坊は、小さい範宴のうしろで、ひそかに思った。

やはり、この和子の五体には、義家から母御の血――義経、頼朝と同じな、源家の武士の脈搏(みゃくはく)がつよく搏(う)っいるらしい。

境涯と、生い立ちの置き所によれば、この少年もまた、平家に弓をひく陣頭の一将となっていたかもわからない。

「御仏(みほとけ)が、それを救うてくださるのだ。有縁の山だ」

と、彼は踏みしめる雪に感激をおぼえた。