性善坊は、そばから、
「範宴さま。先生のお気もちや、お養父君のお心を、お忘れあそばすな」
範宴は、うなずいて、
「はい」
といった。
そして、
「忘れません。きっと、勉学して、お目にかかります」
「和子さま」
箭四郎は、にじり寄って、雪の中から彼の笠のうちを見上げた。
「おからだを、お大事に遊ばせや」
「あい。……お養父君や、弟にも、からだを気をつけてあげておくれ。……おまえも」
「……」
箭四郎は、顔を俯伏(うつぶ)せたまま、降る雪を、背につもらせて、泣いていた。
「参ろうぞ」
慈円は弟子僧たちを、うながして、先へあゆみ出した。
範宴はあわてて、
「さようなら」
「おさらば」
と、日野民部が去った。
「和子さま」
箭四郎は、立ち上がって、もいちど大きく呼んだが、声は、風と雪に攫(さら)われて、宙にふかれてしまった。
――後ろも見ずに、範宴は、先へゆく師の房と弟子たちの後を追って走ってゆくのであった。
幾たびか、雪にまろんで。
そして、叡山口へかかって行く。
山らにかかると、山はなおひどかった。
師の慈円をはじめ弟子僧たちは、誰からともなく、経文を口に誦して、それが、音吐高々と、雪と闘いながら踏みのぼってゆくのであった。
範宴も、口の裡で真似て、経を誦した。
はじめのうちは、声も出なかったが、いつのまにか、われを忘れていた。
辷(すべ)っても、ころんでも、傍(はた)の者は、彼をたすけなかった。
性善坊ですら、手をとって、起こしてはやらないのである。
それが、師の慈悲であった。
弟子僧たちの友情なのであった。
「――誰か知る、千丈の雪」
慈円は、つぶやいた。
「おつかれになりませんか」
弟子僧たちがいたわると、
「なんの」と、首を振られるばかりであった。
範宴は、おくれがちであった。
雪が、雪の中をころがって行くように、峰を這った、谷道を越えた。
性善坊は、後ろについて、
「もうすこしです」
と励ました。
「大丈夫」と、範宴はいう。
幾たびか、ころぶので、竹の杖をにぎっている指の間から血が出ていた。
それでも、
「大丈夫」と、いうのである。
なんという意志の強さだろう、強情さであろう、負けん気であろう、そして、熱情だろう――と性善坊は、小さい範宴のうしろで、ひそかに思った。
やはり、この和子の五体には、義家から母御の血――義経、頼朝と同じな、源家の武士の脈搏(みゃくはく)がつよく搏(う)っいるらしい。
境涯と、生い立ちの置き所によれば、この少年もまた、平家に弓をひく陣頭の一将となっていたかもわからない。
「御仏(みほとけ)が、それを救うてくださるのだ。有縁の山だ」
と、彼は踏みしめる雪に感激をおぼえた。