『私が私でよかったと思える私になりたい』(前期)

あなたは『個性的』と言われた時に、どのように感じますか?

もちろんそれは、言われた時の話の流れや、言い方などによって、とらえ方も違ってくるとは思いますが、私は「特徴があるってことなのかな?」と解釈します。

本来、個性とはよくも悪くも、他人から区別できる違いがあれば個性となるのですが、近年は個性的であることが非常に重要であり、逆に特徴がないこと、区別できるものがないことがまるで悪いことのように言われたりすることもしばしば見受けられます。

たしかに、他の人が感動する・感銘を与えられるような、違いを有するということは大切なことかもしれませんが、そういったものがない場合には『悪・悪いこと』と見なしてしまい、認めないというのはいかがなものかと思います。

『阿弥陀経』というお経の中に「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」という一文がありますが、あなたも耳にされたことがあるのではないでしょうか?

これは、お浄土の蓮の花の色が、それぞれの色で光り輝いているのを表しているものですが、私たちは、顔や姿、性格や能力、生まれや境遇が異なっていても、みなそれぞれ命を輝かせ生きていることを伝えているとも言えます。

向日葵や菊の花が、チューリップやゆり、バラの花を咲かすことはできません。

向日葵は向日葵、菊は菊です。

みんなそれぞれ、精一杯・いのち一杯に自分の花を咲かせています。

それぞれに咲き、それぞれに美しい花なのです。

自分の花を咲かせ、いのち輝いています。

その花たちは、私たちにみられようが、みられましが、どんなに素朴で小さくても、太陽の光に照らされて、いのち一杯に咲いている。

これほどすばらしく、見事なことはないのではないしょうか?親鸞聖人の教えも、どのようなものも、光(教え)に出遇うと、黄金のように輝くと伝えております。

私たちは、常日頃、自己を中心に過ごし、他の人と自分を比べながら、劣らないようにと飾り、ときには思い上がり、時には、落ち込んだりして、何かに追われるような虚しい日々を過ごすことも多くあります。

阿弥陀様の教えはそんな私たちを光照らし、あなたはあなたのままでいいんだよ、と引き受け受け止め、いのち輝かせてくださる教えなのです。

みんなちがって、みんないい。

私が私であってよかったと、自らのいのちという素晴らしく美しい花を咲かせながら、心豊かに、日々のいのちを喜びすごしていきたいものですね。