親鸞・去来篇 12月(7)

ここに参籠してから六日目の朝が白々と明けた。

二日め、三日めは、飢えと寒気に、肉体の苦痛がはなはだしかったが、きのうあたりからは、心身ともに痺れて生ける屍(しかばね)のような肉体の殻に、ただ、彼の意念の火が――生命の火だけが――赫々(あかあか)と求法の扉に向って燃えているのであった。

一椀の食も、一滴の湯も、喉にとおしていないのである。

声はかれ、眸(ひとみ)はかすみ、さしも意志のつよい範宴もその夕がたには、がたっと、痩せおとろえた細い手を床について、しばらく、意識もなかった様子である。

すぐ御葉山(みはやま)の下の鐘楼の鐘が、耳もとで鳴るように、いんいんと初更をつげわたると、範宴は、はっとわれに回って、思わず大喝に、

「南無っ、聖徳太子」

そして、廟窟の石の扉に向い、無我の掌をかたくあわせた。

「――迷える凡愚範宴に、求通のみちを教えたまえ、この肉親、この形骸を、艱苦に打ちくだき給わんもよし。ただ、一道の光と信とを与えたまえ」

思念をこらすと、落ちくぼんだ彼のひとみは、あたかみ、鞴(ふいご)の窓のように、灼熱(しゃくねつ)の光をおびて、唇は一文字にかたくむすばれて、太子の廟窟から求める声があるか、この身ここに朽ち死ぬか、不退の膝を、磐石(ばんじゃく)のようにくみなおした。

彼が、この古廟に詣でて、こうした思念の闘いに坐したのは、必ずしも、途中の出来ごころや偶然ではない。

範宴は夙(と)くから、聖徳太子のなしたもうた大業と御生涯とを、景慕していて、折もあらば、太子の古廟にこもって、夢になりと、その御面影を現身にえがいてみたいと宿望にしていたのである。

若い太子は、日本文化の大祖(おおおや)であると共に、仏教興隆の祖でもあった。

日本の仏法というものは、青年にして大智大徳の太子の手によって、初めて、皇国日本の民心に、(汝らの心の光たれ)と点(とも)された聖業であった。

かつては、弘法大師も、この御廟に百日の参籠をして、凡愚の闇に光を求めたといいつたえられている。

凡愚のなやみ、妄闇のまよい、それは、誰でも通ってこなければならない道であろう。

弘法大師すらそうであった。

いわんや、自分のごときをや。

範宴は、この生命力のあらんかぎりは――と祈念した。

叡山で学んだところの仏学と世間の実相と自身という一個の人間と、すべてが、疑惑であり、渾然(こんぜん)と一になりきれない矛盾に対して、解決の光をみたいと念願するのであった。

しかし、およそ人間の体力に限りがあると共に、精神力というものにも、限度があるのであろう。

夜がふれて、深々と、大気の冷(れい)澄(ちょう)がすべて刃(やいば)のように冴えてくると範宴は、ふたたび、ぱたっと、昏倒してしまった。

すると、誰か、

「範宴御房――」

初めは遠くの方で呼ぶように思えていたが、

「範宴どの。少納言どの」

いくたびとなく、耳のそばでくりかえされているうちに、はっとわれに回った。

紙燭(ししょく)を、そばにおいて、誰やら自分を抱きかかえているのであった。