親鸞・去来篇 12月(10)

「はての……普請の経堂の中でする声らしい。……ちょっと見てきましょう」

法印は、外へ出て、経堂のほうへ出て行ったが、やがて、しばらくすると戻ってきて、

「世間には、悪い奴が絶えぬ」

と義憤の眼を燃やしながら、範宴へいうのであった。

「若い女でも誘拐(かどわ)かしてきたのですか」

「そうです。――行ってみると、野武士ていの男が、経堂の柱に、ひとりの女を縛り付け。凄(すご)文句(もんく)をならべていましたが、どうしても、女が素直な返辞をしないために、腕ずくで従わせようとしているのでした」

「この附近にも、野盗が横行するとみえますな」

「いや、どこか、他国の者らしいのです。私が、声をかけると、賊は、よほど大胆なやつとみえて、驚きもせず、おれは天城四郎という大盗だとみずから名乗りました」

「えっ、天城四郎ですって?」

「ごぞんじですか」

「聞いて居ます。どこの街道へもあらわれる男で、うわべは柔和にみえますが、おそろしい兇暴な人間です」

「――と思って、私も、怪我をしてはつまらないと思い、わざとていねいに、ここは清浄な仏地であるから、ここで悪業することだけはやめてくれと頼みますと、天城四郎はせせら笑って、さほどにいうならば、まず第一に、醜汚(しゅうお)な坊主どもから先に追い退けなければ、仏地を真の清浄界とはいわれまい。坊主が、偽面をかぶって醜汚な行いをつつんでいるのと、俺たちが素面のままでやりたいと思うことをやるのと、どっちが、人間として正直か――などと理窟をならべるのです。これには、私もちと返答にこまりました」

「そして……どうしました」

「理窟はいうものの、やはり、賊にも本心には怯むものがあるとみえ、それを捨て科白(ぜりふ)に、ふたたび、女を引っ張って、どこへともなく立ち去りました」

「では、その女というのは、十九か、二十歳ほどの、京都ふうの愛くるしい娘ではありませんでしたか」

「よく見えませんでしたが、天城四郎は、梢、梢と呼んでいたようです」

「あっ、それでは、やはり……」

範宴は、弟の愛人が、まだ弟に思慕をもちつつ、賊の四郎に反抗し、彼の強迫と闘っている悲惨なすがたを胸にえがいて、たえられない不愍(ふびん)さを感じた。

「どの方角へ行きましたか」

彼は、そういって、立ちかけたが、衰えている肉体は、朽ち木のようにすぐ膝を折ってよろめいてしまうのであった。

法印は、抱きささえて、

「賊を追ってゆくおつもりですか。およしなさい、一人の女を救うために、貴重な体で追いかけても、風のような賊の足に追いつくものではありません」

「ああ……」

涙こそ流さないが、範宴は全身の悲しみを投げだして、氷のような大床(おおゆか)へうつ伏してしまった。

自分の無力が自分を責めるのであった。

弟はあれで救われたといえようか。

弟の女は、どうなってゆくのだろうか。

裁く力のない者に裁かれた者の不幸さが思いやられる。

「――もうやがて夜が明けましょう。範宴どの、またあすの朝お目にかかります」

燈りだけをそこにおいて、聖覚法印は、木履(ぽくり)の音をさせて、ことことと立ち去った。