『利他他者の喜びを自らの喜びとする』(中期)

親鸞聖人が「真実教」と示される『大無量寿』には、阿弥陀仏となられる前の法蔵菩薩が、世自在王仏のみもとですぐれた願を建て、世にもまれなる誓いを起こされたこと。

そして、既にその願いを成就して阿弥陀仏と成られたことが説かれています。

今ここでいわれている法蔵菩薩の願いとは、端的には

「すべての衆生が成仏しなければ、自分は仏にならない」という内容です。

そうすると、ここで一つ、素朴な問いが生じてきます。

それは、自分自身を省み、また周囲を見まわしてみると、そこに見えてくるのは、まさに悟りを得ることなく、迷いのただ中をさまよっている人が自分をはじめとして無数にいるという現実です。

経典によれば、法蔵菩薩は

「すべての衆生が成仏しなければ、自分は仏にならない」

と誓われたはずなのに、どうして既に自らは成仏してしまわれたのでしょうか。

このことについて、曇鸞大師が「火てん(かてん)の譬(たとえ)を」もって応えておられます。

「火てん」というのは、かまどの火を焚く木の火箸です。

その中で曇鸞大師は、

「木の火箸で、一切の草木を焼き尽くそうとして、草木を火の中に放り込んでいると、草木を未だ全部焼き尽くさないうちに、その木の火箸の方が先に焼けきってしまったようなものだ」

と、述べておられます。

木の火箸は、草木を火の中に放り込んでいると、だんだん焦げてきて、終には燃えてしまいます。

火箸は、自分のことは後回しにして、ただひたすらに「一切衆生の煩悩の草木」を焼くことに尽くしたために、かえって我が身が先に燃え尽きてしまったのです。

法蔵菩薩が、衆生よりも先に成仏してしまわれたのは、それと同じことだと言われるのです。

つまり、一切衆生を成仏せしめたいという願いに自らを燃やし尽くしたために、菩薩が衆生に先んじて成仏してしまわれたのだと言われるのです。

曇鸞大師は、その理由を『老子』の中にある「その身を後にして、身を先にする」という言葉を用いて明かしておられます。

この『老子』の言葉は、その前に

「天は長大であり、地も悠久である。

そのように、天長地久であるのは、天地が自分のために生きないからである。

自分のために生きようとするものは必ず滅亡する。

それに対して、少しも自分のためには生きようとせず、自らの変化を通して他に生命を与えることにのみ尽くす天地は永遠に長久なのである」

という文章があり、続いて

「是を以て聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。

其の私無きを以てに非ずや。故に能く其の私を成す」

とある文章の一節にあります。

この後の方の書き下し文を意訳すると

「聖人は自分のことをあとにする。

すなわち私心を持たないから、かえって人から推されて先になる。

一身を度外に置くから、かえって自分の存在を確実にする。

私が無いから、よく私を成すのである。

聖人は無私によって人から推され、自分の存在を確実にし、私を完成する」

ということになります。

この部分だけを読んでも

「その身を後にして、身先んず」

という言葉がいったい何を意味しているのか、すぐに理解することは難しいのですが、けれども実は私たちは日々の生活において、その人が信頼できる人であるかどうかということを問題にする場合、直感的にこの一点を見つめているように思われます。

例えば、学生時代には、しばしば先生を批判をすることがありますが、その場合、生徒達は概ねこの一点を問題にしています。

具体的には、自分の立場や学校の体裁のことばかりを考えて叱るような先生は、生徒が何か問題行動を起こした場合、生徒の心情やその行動の背景に目を向けようとすることもなく、事実だけをもとに一方的に叱ったり、時には学校から排除してしまおうとすることさえありします。

したがって、そのような先生は生徒からは全く信頼されません。

反対に、本気で生徒のことを心配して叱ってくれるような先生は、たとえ表面的には生徒達からこわがられていても、その一方で深い信頼を寄せられています。

このように、生徒達は常に、先生がその身を先にしているのか、あるいは後にしているのかということを直感的に見抜いているものです。

ところで、「利他」というのは「他を利する」ということですが、私たちは「自利」ということは無意識の内に計算することはあっても、「他利」ということを意識することはあまりありません。

もし意識するとしたら、それは

「他が得をすると、そのあおりで自分が損をする」

といったような場合です。

けれども、そのような考えにとらわれている間は、なかなか他の喜びを自らの喜びとすることは難しいと思います。

だからこそ、仏法に耳を傾けることが大切なのだと言えます。

法蔵菩薩が衆生に先立って成仏して阿弥陀仏となられたことの意味に頷くことができたとき、私もまた「他者の喜びを自らの喜びとする」生き方に目覚めることができるように思われます。