このように見てきますと、宗学内においても、また宗学外においても、親鸞聖人の「行」に関しては、まだ種々の問題点が残されているように見受けられます。
では、その原因はどこにあるのでしょうか。
端的には、親鸞聖人の行思想に対する分析の不徹底さにあるのではないかと思われます。
すなわち、伝統宗学において「行」は、主として大行と報恩行、他力と自力、あるいは名号と称名といった範疇の中で大別され、その規範のもとで思考が重ねられています。
しかし、仏廻向の行が大行であり他力であり名号だと使い分けても、それが衆生とかかわる場は「称名」でしかありえません。
そのため、この「称名」に一つの概念規定をほどこし、その称名義のみで親鸞聖人の念仏思想を読み解こうとしても、一面的な理解に陥ってしまう可能性を否定できません。
加えて、私たちがここで最も心しなければならないことは、親鸞聖人の思想そのものに、果たして伝統宗学が意図しているような分類がありえたかどうかということです。
もし宗学が、その根元において親鸞聖人の思想を誤りの中で捉えているのだとすれば、その中で構築された論述は、どれほど精緻を極めていたとしても、親鸞聖人の思想の本質からは遊離したものになってしまいます。
現在、宗学においては「名号」と「称名」を厳密に区別して論じようとしています。
具体的には、前者を仏の側に属せしめ、後者を衆生の側に属せしめるというあり方です。
けれども、そのような分類が親鸞聖人の中にあったのでしょうか。
一つの顕著な例として、大行出体釈の「大行者則称無碍光如来」の文に見られる「称名」と、三心結釈の文に見られる「真実信心必具名号名号必不具願力信心」の「名号」との義を対比させて考えてみることにします。
今日の宗学の一般的解釈に従えば、前者の「称名」は名号の義に、後者の「名号」は称名の義にそれぞれ解釈しています。
つまり、親鸞聖人がわざわざ明示しておられる語意を、全く逆にして註釈を施しているのです。
いったい、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
それは、宗学においては一つの大前提があり、それにしたがって論旨を構成させているためです。
名号を仏の側に、称名を衆生の側に属せしめることがそれで、だからこそ大行は「名号」でなければならず、信を具足しない名号は「称名」でなければならなくなるのです。
けれども、これは極めて不自然なあり方です。
むしろ文を解釈しようとする場合は、親鸞聖人が「称名」と述べられているのであれば称名と理解し、「名号」と述べられているのであれば名号と理解し、その中で親鸞聖人の意図を考察していくことが基本となるはずです。
では、親鸞聖人の文を読み進めていく際、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
簡単なことで、伝統の宗学が大前提としているその概念規定を取り除いてしまえばよいのです。
本来、親鸞聖人の思想には、後世の宗学が意味するような名号と称名との区別はなく、仏の行をある場合は名号、他の場合は称名といわれたのです。
同様に、衆生の行もまた、ある場合は名号、他の場合は称名といわれたのです。
このように受け止めると、煩瑣な理由付けにわずらわされることからも解放されます。
以上のことから、私たちは「行論」に関して考える場合は、「従来の規定概念をすべて疑う」という立場から出発する必要があるといえます。
伝統の宗学の最大の難点の一つは、親鸞聖人の思想を求めようとする場合、その思想と自己との直接的な対話をなす以前に、まず先哲が導き出した語義の概念を理解し、その定義によって親鸞聖人の思想を理解しようとするところにあるといえます。
けれども、この定義をただその通りに理解しようとする在り方は、多くの問題をはらんでいるといわざるを得ません。
なぜなら、もし先人の定義付けに誤りが宿されているとすれば、私たちはそれを誤った形のまま規定概念として論旨を構成していくことになるからです。
そうなれば、結論はもはや親鸞聖人の思想とは異質のものとなってしまうことは自明のことです。
では、私たちはどのような方向から「行」の考察を始めるべきでしょうか。
伝統の宗学の行の定義付けに首肯できない場合、そのどこに矛盾が見られるのか、まずそれを問う必要があります。
そこで、伝統の宗学の「行」に関する定義への批判という角度から、以下考察を進めていくことにします。