『思い通りになるものだというところに迷いがある』(中期)

おそらく、人は誰もが漠然とではあっても「自分の人生は、自分の思い通りに生きたい」と願っているのではないでしょうか。

ですから、時折「自分の思いを大事にして生きたい」と口にすることもあったりします。

けれども、実はこの「自分の思い」というものほど、怪しいものはないのです。

「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉があります。

砂漠や雪原のような、一面見渡す限りの何も目印のない所を自分の思いや感覚だけを頼りに歩いて行くと、自身では真っ直ぐに歩き続けているつもりでいても、二百メートル歩くと必ず横に五メートルほどずれてしまうのだそうです。

そして、大変興味深いのは、右利きの人は右寄りに左利きの人は左寄りにと、利き腕の方向にずれてしまうということです。

つまり、自分ではずっと真っ直ぐに歩いているはずなのに、いつの間にか得意な方に曲がってしまうのです。

歩いている途中に何か目印があれば、それによって絶えず自分の進む方向を確かめたり修正したりすることもできるのでしょうが、砂漠や雪原のような所ではそれはできません。

そのため、自分の思いだけを頼りに進み続けると、歩けば歩くほど次第に利き腕の方にずれてしまい、その揚げ句とうとう最後には元の場所に戻ってきてしまうことになります。

これが、「循環彷徨」といわれるあり方です。

自分では、一生懸命一つの方向に向って相当歩き続けたはずなのに、何といつの間にか元いた所に戻って来てきてしまっている。

それに気付いた時、人は「これまでの自分の歩みとはいったい何だったのか」という言いようのない脱力感に襲われ、自身に対する無力感に絶句してしまうかもしれません。

ところで、これは決して砂漠や雪原だけで体験することではありません。

人は誰もが「幸せ」になることを願い、それを手にするためにそれぞれ自分の人生を精一杯生きています。

その人生は、しばしば旅をすることにたとえられますが、人生という旅路にあってもそれと同じことが言えるのではないでしょうか。

たとえば、ふと自分の人生を振り返り、

「やがて自分は必ずいのちの終わる時がくるが、ではいったいこれまで何のために懸命に頑張ってきたのか」

と自問した時、もしその問いに対する明確な答えが出せないとしたら…、やはりそのような人生は「循環彷徨」に陥っているのだということになりはしないでしょうか。

仏教ではこのような在り方を「流転(るてん)」という言葉で教えてきました。

ふと振り返って見ると、自分はこれまで何をしてきたのかという思いにとらわれ、結局、少しも進んでいないことに気が付いて愕然(がくぜん)としてしまう。

まさに、心の「循環彷徨」です。

考えてみますと、私たちはあらゆる体験を自分の思いにおいて重ね、ものを見る時も常に自分の思いで見ているだけで、少しも自身の姿を省みたりすることはありません。

仏教では、このようにあらゆる行為を自分の意識を離れて観たことがない、必ず自分の意識においてしているということを「不離識(ふりしき)」と言います。

確かに、私たちは自分の周囲の事柄を見て、受け止めて、考えて、判断して、何かを言い、何かをしているのですが、では私が見て受け止めたことが事実かというと、決してそうではないのです。

常に「自分の思い」で見て、受け止め、判断しているのです。

そして「あれが欲しい」「これがしたい」「こうなれば」「ああなれば」という「自分の思い」によって生きています。

そのため、無意識の内に「自分の思い」を満足させてくれるような世界を求め、思いのままに生きることを一つの夢として生きているのですが、その根底には常に「世の中のことは、自分の思い通りになるはずだ」という期待感があります。

ところが、「現実」はいつも私の思い通りに行くわけではありません。

むしろ、思い通りに行かないことの方が多いくらいです。

この自分の思い通りにならないことを仏教では「苦」といいます。

まさに、それが私の身の事実なのですが、にもかかわらず、私たちはそのことに目を向けようとしないばかりか、自分の思い通りにならないと「おかしい」と感じ、上手くいかないことの原因を他に転嫁してしようとさえします。

それは、自分のいのちの事実として与えられてあることを引き受けられない弱さですが、仏教ではこれを「愚痴(ぐち)」といいます。

一方、自身の身におきた事実をあるがままに引き受けていく勇気を「智慧(ちえ)」といいます。

そうすると、「思い通りになるものだ」というところに「迷い(愚痴)」があり、本質的にはそのような生き方に終始する私であればこそ、日頃から仏法に耳を傾け、どこまでも事実を事実としてあるがままに受け止めてゆける勇気(智慧)を持ちたいものです。