白磁(はくじ)を砕(くだ)く 2014年6月28日

あらゆるものを断(た)ちきってまっしぐらに歩み出した闇であった。

範(はん)宴(えん)は四、五町ほど駈けてから聖光院(しょうこういん)の方を振りかえった。

門の潜(くぐ)り戸を開けて、その前に立って見送っていた性善坊の姿もすでに見えない、しきりと天地の寂寞(せきばく)を翔り立てる暗い風があるばかりだった。

白い小(こ)糠(ぬか)星(ぼし)は有(あり)明(あ)けに近い空をいちめんに占(し)めていた。

「ゆるせ、おまえにも苦労ばかりかける……」

詫びないでいられないものが、範宴の胸を突きあげてくる。

まだ僧門に入らない幼少のころから起居を共にしてきた性善坊には、骨肉以上な恩愛をさえ抱いているのにその性善坊に対しては、省(かえり)みてみると、ほとんど、安心というものを与えた遑(いとま)がなかった。

彼はなにか、自分のこういう不羈(ふき)な性格の人間に常識的な支えをしてくれるために生れてきたような男に思われる、自分のために彼を犠牲にしてきたことが実に多かったことを範宴はしみじみと今ここで感じる。

「しかし決して、わしはそれを無駄にはしないぞ」

掌(て)を合せていう心持になるのであった。

――同時に、青蓮院の僧正に対しても、そこにいる弟の尋(じん)有(ゆう)にも、また、世を遁(のが)れて竹林の奥深くに一切を断(た)っている養父(ちち)の観真に対しても、ひとしく心からな謝罪の念が湧いてこずにはいない。

「後ではさだめし、不浄者とお思いになりましょうが、範宴はもいちど自分を鍛(う)ち直して参ります。決して、敗れて遁(のが)れるのではありません、世評を怖れて隠れるのでもございません、また、罪の発覚を知って姿を消す次第でもないのです、ただ、この一身一命を奉じて、もいちど大蔵の闇へ閉じこもって、御仏(みほとけ)の膝下(ひざもと)へ確乎(しっか)とすがりつきたいのです、おゆるしください、しばらくのあいだ」

この夜半(よなか)すぎに聖光院を捨ててそもいずこへ走ろうとするのか、範宴の身にはすでに聖光院門跡の纏う綾の法衣(ころも)や金襴は一切着いていなかった、一(いち)笠(りゅう)一杖(いちじょう)の寒々とした雲水の姿であった。

そうして聖光院を捨てて出た彼の心は、性善坊だけには、いい残してきた。

彼にはすべての秘密もうちあけて――また後々のこともたのんで。

木(こ)幡(ばた)民部(みんぶ)と覚(かく)明(みょう)には、遺書を認(したた)めておいて来たのである、どんなに彼らは後で驚くだろう、悲しむだろう、しかしそういう目前の感情は、範宴の今の大きな覚悟のまえにはあまりに小さい問題だ、もっともっと大きなものすら踏み越えてゆく決心なのだ、女々(めめ)しくてはこれからの万難の一つも越えられまいと、自身を叱って自身の心をかたく鎧(よろ)う。

「そうだ、夜の明けない間に――」

歩み出そうとすると、彼の法衣(ころも)のすそを引くものがあった、大きな黒い犬である。

「しっ」

範宴は追い払って駈けた。

犬は、寝しずまっている世間へ告げるように吠えたてる。

彼は、犬の声にすら趁(お)われるような気持がした。

まだ暗い加茂の瀬にそって、彼は足のつづくかぎり急いだ。

幸いにも、京の町では誰にも咎(とが)められなかった。

そしてやがて、息を喘(せ)いて上がってゆくのは叡山(えいざん)の麓(ふもと)だった。

彼の心には常にこの山があった。

この山は範宴にとって、心の故郷(ふるさと)なのである。

※「不羈(ふき)」=才能がすぐれていて、おさえられないこと。非凡(ひぼん)。