『盂蘭盆会 心静かに南無阿弥陀仏』(前期)

心を静かに、穏やかにしようと思えば思うほど、私の心の中はどうなるでしょうか。

その思いとは真逆に、いろいろなことが頭の中に浮かんだり、周りの物事に敏感に反応してしまい、余計に心が揺れ動いてしまいませんか。

気持ちを落ち着かせたい、落ち着かせようとすればするほど、落ち着かず不安な気持ちになってしまう。

これは信心が足りないから…。

修行が足りないから…。

そうではないですね。

南無阿弥陀仏をいただき、お念仏を喜ばれた浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、約20年間に渡る厳しい自力の修行(厳しい戒律を守りながら、自らの修行によって悟りを得ようとすること)をされましたが、自らの心にとめどなく湧き起る欲望や憎しみの心など、どんなに辛く厳しい修行を重ねても拭いさることができない。

そのため、自分が救われる道はないのかと苦悩されたそうです。

そのような時に「どんな命であっても、必ずお浄土に生まれさせる」という南無阿弥陀仏のお念仏、阿弥陀如来の教えに出遇われました。

立派な偉いお坊さんの話を聞き、厳しい修行を重ねても悟りを得ることができない。

そんな自分の命は、仏となることができないのか、いったいどこへ向かっているのか。

しかし、そんな私であるからこそ救わずにはおれないのは阿弥陀さまであった。

つまりは間違いなく「この私も仏となる命であった」と気付かされた喜びはどれほどのことであったでしょうか。

先の見えない暗い夜道で、道の先から明かりが見えたら、どんなに安心することができるでしょう。

こうして毎年お盆の時期になりますと、お寺にはご相談のお電話も多くなります。

その中には

「提灯を仏壇やお墓、家の中にお供えを『しなければ』いけないのでしょうか」

「迎え火、送り火は『しないと』何が起こるのか」

といったご相談が多いように感じます。

さて今この文章をお読みのあなたはどう思われますか。

先ほどから申しあげている通り、お念仏に出遇えた私たちは、必ず仏となる、必ず仏とならせるとの阿弥陀如来さまの救いの目当てであります。

それは、どんな私であっても仏とならせていただく、なんの心配もいらないということです。

お提灯が用意できなかったら怒って嫌がらせをするような仏さまでしょうか。

私の都合で迎え火をして、お盆の期間が過ぎたら私の都合で送り火をしてかえってもらう。

そもそも仏さまが迷ったり、道がわからなかったりするのでしょうか。

自分の都合だけで仏さまにお願いをする。

自分の都合がなければ、仏さまを見ようともしないのが私の姿です。

そんな私だからこそ、いつでもどこでも、この私の命が心配で仕方がない。

心配で心配で、どうしようもないからこそ、お念仏の言葉となり、他の口からでるお念仏を聞き、様々な形でこの私をいつもいつもよび続けてくださる仏さまなのです。

自分の都合ばかりを考えて、

「あれを『しなければ』あれを『しなかったから』悪いことが私に続く」

なんていうことは、悲しいとしか言いようがありません。

道に迷ってしまうのは、こうして自分のことばかりを考えて生きている「私」の方であったと気付かされます。

心静かにできない、進むべき道すらわからない、そんな私の本当の姿に気付いたとき、仏さまの真実の喚び声が聞こえてくるのではないでしょうか。