真宗講座浄土真宗の行(9月中期)諸引文の思想

以上、大行に関する諸説を概観し、その各々の問題点を述べてきましたが、その要はただ一点に集約されます。

「大行」の問題を考察すると、それは第十七願と第十八願の場を明確にすることだといえます。

大行としての称名は諸仏の行であって、未信の者には教法としての性格をもちます。

したがって、その両者を混同することは許されません。

けれども、この問題点を除外して今一度諸説を通覧してみると、石泉は衆生の称名を、空華は法体の名号を、豊前は諸仏の称名を、それぞれ大行の体としています。

これを桐渓氏の説においてまとめれば、法体の名号といっても、諸仏の称名といっても、現実界においては、ただ「衆生の称名」という形態を通してしか現れないということになるのではないでしょうか。

換言すれば、阿弥陀仏によって廻向された名号が諸仏を通し、私たち衆生の上に称名となって現れ、そのはたらきを大行というのです。

そうだとすれば、大行をあるいは法体の名号といい、諸仏の称名といい、衆生の称名といっても、これは本来一つである物柄を表現をかえていっているのにすぎないということになります。

つまり、「名号」と「称名」という別個の物体が個々にあるのではなく、それは本来同一のものなのです。

そうすると、能所不二というような論を立てることがそもそもおかしいと言わなければなりません。

相即するということは、別個のものが融合し合う方向を指すのであり、同一のものに対してこのような議論は成立しません。

このようにみれば、従来の宗学が大行に関して最も重視した問題、「名号であるか称名であるか」という設問の仕方そのものが、実は本質的な誤りをおかしていたということになります。

では、親鸞聖人における「大行」と何でしょうか。

ここで「行巻」の「出体釈」から「称名破満釈」までを検討し、大行とは何かということについて考察していくことにします。

周知のように「行巻」は標願に「諸仏称名」を掲げ、それを出体釈において「大行者則称無碍光如来名」と受けられ、その称名を釈して「摂諸善法、具諸徳本」といわれ、さらに「出於大悲願」と、それが大悲の願より出たものにほかならないことを示されます。

そして、それ故に「称名は衆生の一切の無明を破し、一切の志願を満てたもう」と結ばれます。

ところが、親鸞聖人はこのような結論を導かれるものの、それがなぜかという理由に関して親鸞聖人自身の言葉では一言も表明してはおられません。

「諸善法徳本」といわれることの内容、大悲の具体的なはたらき、あるいは無明が破られていく方向などに関しては、自身の言葉では何らふれてはおられないのです。

なぜでしょうか。

凡愚であることを深く自覚しておられた親鸞聖人は、自身の言葉で阿弥陀仏の大悲そのものをはかり知ることはできないと思われたからであると推察されます。

そこで、親鸞聖人は、自らの言葉にかえて諸経典を引用して大行の徳を語られます。

つまり、仏のはたらきを仏の言葉によって明証されたのです。

そうすると、大行の性格を知る鍵は、諸引文の解読にあるといえます。

では、いったい親鸞聖人はこれらの仏説を通して大行をどのように把握されたのでしょうか。

逆に言えば、これらの言葉を通して、大行の本質をどのように説示しようとなさったのでしょうか。

そこで、諸引文中より大行の特性を示す語句を摘出分類して再構成してみることにします。

  1. 阿弥陀仏の名号は、誓願の廻向力によって、その名声が十方世界、無数の仏国に響流し、あまねくゆきわたらざるところがない。
  2. 一切の諸仏は、その名号の威神功徳を聞き、阿弥陀仏の名および国土の善を、常に大衆中において、讃嘆し説法獅子吼する。
  3. 名号の力用は、諸仏の説法を通し、大衆の心に入りて、衆のために宝蔵を開き功徳を施す。貧窮を救い、諸苦を免れしめ、安楽なさしめる。名を聞いた衆生に、慈心歓喜の心を生ぜしめ、欲生心を発起せしめて、阿弥陀仏国へ来生せしむ。そしてその者に、往生の決を定む。
  4. 大衆中における諸仏の説法は、まず常行の施に堪えられず、苦にせめられ、貧窮のなかにとどまる者、彼らにこそむけられる。
  5. 故に、弥陀の名号は、悪のために苦悩する者こそが、その名号の真実を真に聞きうるのであって、ひとたび名を聞くものはすべて、欲生心を生起せしめて我が国に到らしめる。
  6. ところで今、仏の名を聞きて、歓喜踊躍している衆生は、いかなる因縁によるのか。それは今、偶然に名を聞いたのではない。過去世において、仏の座に会し、諸仏を供養し、清浄戒を保ち来たがために、その因縁が生熟し、この名号法を聞いているのである。
  7. さればこそ、名を聞いた衆生は、その仏国にあっては、快楽安穏にして大利を得、当来には必ず阿弥陀仏国に生ぜしめられる。かの国に来生して、必然的に不退の位を得、無量の諸仏を供養する徳を得る。またかの衆生の歓喜を見て、仏は大いに喜び、かれを我が親しき友とされるのである。

大行とは本来、このような「特性」を有し、諸仏を通し常に衆生の心に働きかける力なのであり、衆生の無明の闇を破せんがための大悲の動態が大行の本質です。

だからこそこの力は、諸の善法を摂し、諸の徳本を具して、一切衆生の心に徹入するのです。

こうして大行が、無明の闇を破するために、この世に至り届いているのだとすれば、大行の存するところ、無明はすでに破られ、志願は満たされているといわなければなりません。

名号が来るその瞬間に、一切の功徳が極速円満する真如一実の功徳宝海こそ、大行にほかならないのです。

そしてこの大行の相が「称名」なのですから、称名するその刹那に、一切の闇が破られると言われるのです。

そうだとすると、ここで当然、一つの疑問が生じます。

それは「称名をしても無明がなお存し、踊躍歓喜の心が起こらないのは何故か」という疑問です。

けれども、私たちはここで大行そのものの本質の問題と、それを受け入れる衆生の側の「心」の問題とを混同してはなりません。

大行の本性からいえば、大行の存するところ、明らかに無明は破られています。

ただし、その破られていることを自覚するかしないかは衆生の側の問題です。

そうすると、そこに「聞」の重要性が生じ信の意義が厳しく問われなければならなくなります。

しかしながら、それはこの場合、別の問題になります。

事実、親鸞聖人がこの問題について論じられるのは「信巻」においてですから、獲信の問題をこの「行巻」に混入せしめてしまうと、大行の本質を見誤り、ひいては「信巻」の問題をも曖昧にしてしまうことに陥ってしまいます。

親鸞聖人は、称名を大行といわれ、それ故に称名は無明の闇を破すると言われます。

ではなぜ、衆生の称名が無条件に大行と呼ばれるのでしょうか。

ここにおいて、改めて出体釈を問うことが必要になります。