ぞんぶんな悪態をついて、
「馬鹿門跡っ」
「欺(ぎ)瞞者(まんしゃ)」
そして天狗のように、
「わはははは」
そこらへ、唾を吐(は)きちらして、帰ってゆくのだった。
やっと一群れ帰ったかと思うと、また、次の一群れが来る。
同じように罵詈(ばり)か、強請(ゆすり)か、論議売りであった。
夜になると、聖光院の大屋根へ、ばらばらと石が降った、掘の外を大声で、
夜ごと夜ごとの
恋猫は
人目の築(つい)地(じ)越えて
煩悩の辻こえて
月(つき)輪(のわ)へ
しのぶとよ
朝な朝なの
恋猫は
諸人(もろびと)の鞭(むち)に追われ
御(み)仏(ほとけ)の裳(もすそ)にかがまり
昼もなお
しのぶとよ
破(や)れ扇(おうぎ)で手(て)拍(びょう)子(し)を打ちつつ、聞えよがしに歌って通る者があったりする。
朝、門を開ける者は、必ずそこら一面に落ちている瓦(かわら)だの、牛の草鞋(わらじ)などを見た。
ある朝は、大きな墓石が投げこまれてあったりした。
――仏誅(ぶっちゅう)必ず汝に下らん。
などと書いた投げ文は毎日のことである。
しかし範宴その人の生活は、ここへ移ってからも依然として変らない、思索の寂室に、いつもひっそりと住んでいるのだった。
青(しょう)蓮院(れんいん)の慈(じ)円(えん)僧正と、そのほかへ四、五度(たび)の消息をつかわしたり、慈円からも幾回となく書状の来た形跡はあるが、外へは、一歩も出なかった。
彼の身辺のそうした静けさは、ちょうど颱風(たいふう)の中心のように、いつ破壊と暗黒が襲ってくるかわからない不気味な一刻(ひととき)に似ていた。
突然にいい出されたので、扈(こ)従(じゅう)の人々は狼狽した。
その範宴が、室(へや)を出ていったのである。
「きょうは黒谷の上人(しょうにん)のもとへ参ろうよ」と。
坊官たちは、
「えっ、ただ今?」
思わず問いかえした。
「うむ」つよく顎(あご)をひいていう。
問い返すまでもないことだった。
範宴のすがたを見ると、白絹の法(ほう)衣(え)に白(しろ)金襴(きんらん)の袈裟(けさ)をかけ、葡(ぶ)萄(どう)のしずくを連ねたような紫水晶の数珠(ずず)を指にかけていた。
その数珠は、母の吉光(きっこう)の前(まえ)の遺物(かたみ)であり、白金襴の袈裟は、このまえ師の慈円僧正に対する堂上の疑惑をとくために参内した折に着けたもので、めずらしくも、正装しているのである。
民部も、覚明も、性善坊も、師の装いに倣(なら)って、あわただしく身支度した。
階前には、稚子(ちご)たちがそろう。
牛飼は、小(こ)八葉(はちよう)の新しい輦(くるま)を、車(くるま)寄(よせ)にひきだしていた。