つい先日のことですが、小学校からの同級生のおばあちゃんが亡くなられて、通夜・葬儀・中陰と勤め、満中陰(四十九日法要)を自宅で勤めました。
法要も無事に終わり、同級生である友人がお通夜の日のことを話してくれました。
友人がこう言います。
「いやぁ、お通夜の日は本当に大変だったよ。
寝不足で辛かった」
祖母を亡くし、悲しみの中にいたことであろうと思い、それを労いながら私も声をかけました。
「おばあちゃんが亡くなるのは辛いよね。
私もおじいちゃんの時、ほんとに辛かったから気持ちがよくわかるよ」
すると、友人は思いもかけぬことを言い出しました。
「悲しいのもあるんだけど、お線香とロウソクの火を絶やすといけないと聞いたから、それを必死に維持するのが大変で、絶やすまいと思っていたら、意外と悲しむ暇もなかったよ」
と、言うのです。
それを聞いたときに、私は心の中で、「どうして私に相談しなかったんだよ!」と思いながら、浄土真宗でのこのことに関するお話をしました。
あなたも、一度くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。
では、そもそもなぜ「通夜や葬儀の時に、ローソクや線香の火を絶やしてはならない」といわれるのでしょうか。
人の生死の経過を「四有(しう)」という状態であらわします。
人がこの世に生を受けた瞬間を「生有(しょうう)」、生を受けてから死ぬまでの間の身を「本有(ほんぬ)」、死の瞬間を「死有(しう)」、死んでから次の生を受けるまでの間を「中有(ちゅうう)」といい、人はこの「四有」を繰り返しているのです。
このうち死んでから次の生を受けるまでの間を「中有(ちゅうう)」または「中陰(ちゅういん)」ともいい、四十九日までの期間はこの「中有」の状態で七日ごとに転々とするので、七日目ごとに亡くなった方の行き先を案じるご供養として、七日ごとの法要が勤められるのですが、この間、死者は極めて微細な体で、香を食していると言われているのだそうです。
これが亡き方を苦しめないようにとの願いから、「死者のために線香を絶やしてはならない」ということの根拠になっているのです。
浄土真宗は「往生するとすぐ仏さまに成る」という教えですから、ローソクや線香を絶やしたからといって故人が往生できないということはありません。
むしろ、亡き方を縁として、救いの教えをいただいていくわけですから、亡き方のご縁が辛い作業のようになってしまってはいけませんね。
ちなみに前向きな友人は、これを聞いてこう言いました。
「なぁんだ、そうだったのか。
じゃあ、ばあちゃんは命がけでオレに苦労させて、大切なことを教えてくれたんだね。
ばあちゃんめ!」
いい友達をもった気がした私でした。
南無阿弥陀仏。