「……ね、松虫様」
「え?」
「つまらない、帰りましょう」
「でも、せっかく来たのに」
その席を立ちたくもあるし、立ちたくない気持もする。
「法然様のお話だけでも聞いて行こうではありませんか」
「そうね……」
気のすすまない顔つきで、鈴虫は、それだけを、待っていた。
(早くやめないかしら)と思っている念仏の唱和は、それからも、足のしびれるほど永くつづいた。
初めのうちは、彼女たちは、軽い悔いばかり考えて、
(来なければよかった)と思っていたが、そのうちに、前の人も、後ろの人も、また隣の者も、およそこの御堂にいる人々のすべてが、ほとんど一つ人格になりきって、なむあみだぶつの称(とな)えをくりかえしているので、鈴虫もいつの間にか、
(な、む、あ、み、だ、ぶつ)そう口のうちで、少し、きまりの悪いような怯(ひる)みを抱きながらつぶやいていると、松虫も、それを真似て、
「な、む、あ、み……」
と、いいかけて、俯向(うつむ)いて、ちょっと笑った。
――でも、たとえ、戯(たわむ)れにでも――何か口につぶやいていないと、まわりの人々に対して、異分子のように自分たちの存在が感じられるので、
(笑ってはだめ)と、叱りあうような眼をそっと交わしながら――
「南、無、阿、弥、陀、仏」
「南、無、阿、弥、陀、仏……」と、となえていた。
初めは、何となく、舌にもつれて、不自然にしか出なかった称名が、いつのまにか、鈴虫も松虫も、自然にくりかえされていた。
そればかりではない――ふッと、水の面(も)に、月の影が浮かび出たように、ふたりのすこし澄んできた胸のうちに、自分でも知らなかった自分でも知らなかった自分のたましいが、うっすら、感じられてきた。
念仏は、彼女たちの唇がいっているのではなかった。
――初めのうちは、その唇だけのものだったが、いつのまにか、唇の声は失せて、その胸の奥所(おくか)にあるたましいが、称(とな)えているのだった。
正しい人間のすがた。
――今の自分のすがたが、それに近いものになっていることを、松虫も鈴虫も、うすうす感じてきた。
(自分にも、こんな素直な自分があったのかしら?)と、自分を見直すほどに。
理窟や小智恵は、その間、働かなかった。
わけもなく人間らしいよろこびと強さが体にわいてくる。
まわりの人々が、われなく、他人(ひと)なく、称名しているすがたを、初めは、おかしく見ていたが、その安心しぬいている生命の光が、次には、尊く見えてきた。
「――お上人様が」
「お上人様のおはなしじゃ」
あたりの者が、もう、念仏をやめて、正面に身のびをしながら、こう少し騒(ざわ)めき合っても、松虫は、まだ掌(て)を胸につけて、俯向いたまま、称名していた。
「松虫さま。御法話です」
鈴虫にそっと注意されて、彼女は初めて、気がついたらしく、顔を上げたが、その睫毛(まつげ)には、涙のようなものが光っていた。
※「奥所(おくか)(奥処)」=奥深い所。奥まった所。はて。