『苦楽を繰り返し年は暮れゆく』(中期)

この時期になると、毎年のように「もう今年も、年の暮れか…」と思います。

ついこの前、新年の挨拶を交わしたばかりのような気がするのですが、いろいろなことに追われている内に「もう今年も…」といった感じです。

けれども、振り返ってみると、この一年、楽しかった、苦しかったこと、あんなことやこんなことがありました。

そういったことを繰り返しながら、また今年も暮れてゆくのですが、できれば苦しいことはなるべく少なく、その一方、楽しいことはたくさんあってほしいものです。

ところで、阿弥陀仏の仏国土を「極楽浄土」といいます。

この「極楽」という言葉は「楽しみが極まる」と読むことができます。

そのため「極楽」は一般に「最高に楽しみの多いところ」だと理解されているようです。

けれども、実は「極楽」とはそのような意味ではなく「苦楽を超えたところ」という意味なのです。

なぜなら、もし「極楽」が、苦楽の世界の中で最高に楽しみの多いところということであれば、それはまだ迷いの世界の一部に過ぎないからです。

したがって、悟りの世界である「極楽」とは、最高に楽しいところではなく、苦楽を超えるということを意味しているのだといえます。

源信僧都の著された『往生要集』の中に「苦といい楽といい、共に流転を出ず」という言葉があります。

「流転」というのは、言い換えると「自分のあるべきすがたを失う」ということです。

確かに、私たちは、苦しい状態にあっても愚痴をいうという形で自分を失っています。

同時に、楽しい状態にあっても楽しみの中に浮かれて、空しく時間を過ごしてしまっていたりします。

そこに苦しみといい、楽しみといい、いずれにしても、そういう自分のあるべきすがたを忘れたあり方というものを出ていない。

そうした私たちを自分のあるべきすがたに呼び戻す世界として「極楽」という言葉があるのです。

また源信僧都は、苦しみというのは「自情に逼迫(ひっぱく)している状態」であると言われます。

苦しみというのは、私の感情や気持ちにとって、今の自身の状況が胸苦しく圧迫してくる、そういう状態として受け止められるときのあり方です。

それに対して、楽は「自情に適悦」といわれます。

自分の情感にあてはまるというあり方です。

この場合、「自情に」ということに着目する必要があります。

それは、「苦しい」のは、私にとって苦しいということです。

決して、この世の中に苦しい世界があるのではありません。

事実としてあるのは、一つの世界を私は苦しいものとして生きているということだけなのです。

そうすると、同じような状態であっても、他の人は生きがいのある世界として嬉々として生きているということもあり、また私自身においても、それまで苦しみしか感じなかった世界が、今は楽しい世界と感じられるようになることもあったりします。

周囲を見渡せば、同じような環境であっても、そこに生きがいを感じながら生きている人もあれば、反対に愚痴ばかりをこぼして世の中を恨みながら生きている人もいたりします。

つまり、外側に私の「自情」をはなれて、苦しい世界とか楽しい世界が色わけされてあるのではなく、ただ与えられている状況というものを、私は苦しいものとして、あるいは楽しいものとし受け取り生きているという事実があるだけなのです。

これに対して、「極楽」というのは、苦楽をほんとうに受け止める。

苦といい楽といい、そのいずれもほんとうに受け止めていける世界のことをいうのです。

苦楽ともに、それによって自分を忘れていくのが迷いの世界ですが、苦楽いずれにあっても、そのことによって自分というものをほんとうに受け止め、自分というものをほんとうに生きていく、そういう世界を見いだしていくのが極楽という言葉が語りかけている教えの内容だと言えます。

そうすると、苦楽を繰りかえしてきたように思われるこの一年も、実は「自情によって」苦といい楽と思っていたことに気付かされます。

それと同時に、仏法に耳を傾けることによって初めて、私たちはどのような環境にあっても、自分を見失うことのない生き方ができるのだということが知られることです。