老病死から学ぶ仏教(中旬)変わらないテーマ「老・病・死」の苦悩

「老・病・死」というのは、仏教ができた時代から2500年以上前からずっとテーマにしてきた、いつの世もいつの時代にも変わらない苦しみです。

この「老・病・死」の苦悩というのは、成長期であろうと成熟期であろうと、人間として生まれた限り、向き合っていかなければならない苦しみです。

いつの時代も変わらない苦しみであれば、一方でその時代特有の苦しみとか、その地域、その国ならではの苦しみもあります。

今、我々の現代社会の苦しみというのは、やはり「自己決定」とか「自己表現」とか「自己責任」というところにあると思います。

これは、成熟した社会の苦しみの一つです。

喜びのひとつでもあり、苦しみの源泉でもあります。

成熟社会では、できるだけいろいろな価値を認めよう、尊重しようとします。

そうなると、落とし処は「自己決定」しかなくなってきます。

自分のことは自分で決めて、自分で責任を持つ社会です。

「老・病・死」に関しても、いくつかの場面で「自己決定」が求められます。

例えば、どの状態で資料を拒否するかなど、自分で決めなければならない時があり、なかなか厳しいものがあります。

そのため、個別の事例に出会うことは大切なことです。

具体的な事例に出会うと、自分が漠然と持っている枠組が揺れます。

そうなると、自分の枠組をもう一度作り直さないといけないというような事態がおこるかもしれません。

これが、まさに仏教的手法で、仏教の魅力的なところなのです。

インドにパーラナーシという聖地があり、ここにはボランティアの人が運営する「死を待つ家」というのがあります。

ヒンズー教徒は、亡くなると灰になるまで火葬して、川や山にその灰を捨てたりします。

末期になると、バーラナーシで死にたいと思う人が多く国中から集まって来ますので、路上で寝ている人などに手を差しのべて、この家で最期を看取るという形です。

韓国では、国立や公立の病院に宗教のスペースがあります。

仏教徒の部屋、クリスチャンの部屋、儒教徒の部屋など。

敷地内に教会を建てているところもあります。

仏教徒の部屋にはお坊さんがいて、朝夕にお勤めしますし、クリスチャンの部屋ではミサや礼拝が行われています。

病人だけでなく、家族にも開放されていて、愚痴を言ったり世間話をしたりできるのです。

大阪には「生前個人墓・自然」というのがあります。

大都会の中にあって、周りは単身世帯ばかり。

土地柄、そういう人たちのためにつくられた、新しいスタイルのお墓です。

生前に、自分で自分のお墓を置いて「自然グループ」に仲間入り。

みんなで旅行に行ったり、食事会を開いたりして、とても仲がいいんです。

地縁も血縁も職縁も何もなかった人たちが、お墓を縁としてコミュニティーを生み出したのです。

このように、様々な事例と出会って、自分の枠組を揺らす。

いろいろなコミュニティーに所属するというのも、これからの成熟期の社会への関わり方として大事なのではないかと思います。