先月4月1日より、先代である父の跡を受け継ぎ、一ヶ寺の住職としてその任をお預かりすることになりました。
駆け出しの新米住職であります。
平成15年4月に地元に戻り、これまで父の元で法務などお手伝いしてきましたが、これからは自分の責任と判断で全てを務めていくことになります。
今はまだ不安と緊張の中で、思いや理想だけがフラフラと一人歩きしているような状態ですが、将来を見据え、地域の方々との繋がりを大事にし、同世代、そして次の子どもたちの時代へ「信仰の姿」が大切に伝わるよう、僧侶としての立場を意識した生き方を忘れず心がけていたいと思います。
縁あって、お寺という環境に命を授かりました。
物心つく頃より、僧侶としての父親や祖父の姿を見ながら、また、お寺にみえるたくさんの方々と接する中で、自分は跡取りなんだ、僕もお坊さんになるんだ、という意識にためらいはなく、そこがまたお育てであったと今は有難くふり返ることです。
けれども、日本を出てカンボジアを訪れた際、その思いは一変しました。
カンボジアは国民の95%以上が仏教徒という日本以上に仏教の精神が国民生活に深く根ざしたところです。
カンボジアと日本の仏教は、その伝わり方によって教義、容姿など大きく違いはありますが、敬いの心、生活の中ににじみ出る仏さまを大事にしたカンボジア人の生き方、何よりこの国を包む空気に身を置く中で、私は僧侶としての自分の姿勢を問い直さずにはおれませんでした。
いい意味で大きなショックを受けました。
ある時カンボジアのお坊さんから、次のように尋ねられたことがあり、返す言葉が見つからなかったことを今でも思い出します。
それは、「どうしてお坊さんになったのですか?」
実家がお寺だから。
後を継がないといけないから。
もちろんこれらも理由の一つに違いはないのですが、そんなことではなく、そもそもなぜ自分は僧侶なのか、何を志して今僧侶という立場にいるのか。
答えられそうで答えられない、非常に厳しい自分自身への問いかけでした。
お坊さんは資格なのか、なることが大事なのか、坊さんになって今私はどうあるべきなのか・・・など、それ以来自分の中で悶々としたものを抱えながら自問自答する日々が続きました。
この問いは今もこれからも、自分が僧侶として生きる基盤として、一生かけて課題としていかなければならないような気がします。
鹿児島をはじめとする南九州一帯は、「隠れ念仏」と呼ばれるように約300年に渡って浄土真宗の信仰は禁止され、想像を絶する辛苦の時代がありました。
明治9年、ようやく信教の自由が許され、それ以来鹿児島の地にも浄土真宗の寺院が建立されるようになりましたが、忘れてならないのは、ここにお寺を建てたいと願ったのは、僧侶でもご本山でもなく、そこに暮らす地元のお同行(浄土真宗の教えに生きる仲間)の方々でした。
お寺ができて歴史がスタートしたのではなく、苦難な時代にあっても信仰に生きる姿勢を、お念仏を大切に守りぬいてきてきた当時の方々の、ここにお寺を求めたいという篤い思いの上に、今のお寺の礎があります。
そこに思いをいたすとき、お寺という環境、私たち僧侶が今いただいている生活の場は、自分の持ち物ではなく、お寺を護持してくださるご門徒の皆さまよりお預かりさせていただいている場であることは申すまでもありません。
「お寺はみんなの持ち物、みんなの空間」
年度始めのお寺の総会にあたる評議員会で、住職を継ぐにあたり私はご門徒の皆さまの前でこのことをまずお話ししました。
私はカフェの原点はお寺でのお茶飲みではなかったかとも思っています。
毎日ご命日等でお参りに来てくださる皆さんへ、鹿児島弁で言えば「茶いっぺ、どうぞ」、お茶一杯どうぞと親しんでもらえるよう、お参りできてよかった、ホッとひと息ついて帰っていただけるような、そんなお寺の雰囲気を大事に守っていきたいと思います。
仏教では、教えに学ぶことを「心田(しんでん)を耕す」といい、様々な状況によって荒れがちな心の田を、仏さまの教えにリードされつつ、つねに耕すことが大切であると聞かせていただいてます。
常識やイメージにとらわれず、色々なことに関心を寄せ、人間の思考や感性、五感をチューニングしていくことが大事だと感じています。
僧侶として、住職として。