「えっ、すぐに?」
と、人々は疑ったほどだった。
親鸞の決心は固い。
「そうじゃ、どうしても、師の法然御房にお会い申したい。雪解けをを待っていては、三月になろう。同じ雪のあるうちなら、今の間に――」
と、いうのであった。
供には、生信房と西仏と――また、新しく弟子となった佐々木光実、釈了智の兄弟。
師弟あわせて五人。
小丸山の庵室の留守居としては、教順房をかしらにして、石念夫婦や、そのほかの者をすべて残した。
支度といっても、笠と藁ぐつ。
「この雪では、とても国府の町までもお歩(ひろ)いはかないますまい」
と、佐々木了智は、侍のたしなみとして、すぐ思いついた駒を曳いてきて親鸞にすすめた。
そして、光実と了智の兄弟が、馬の口輪を取ってすすむ。
雪は、この日も小やみなく降っていた。
師弟の影は、すぐ雪の中へ埋みこむように白くかくれてしまう。
「お気をつけて――」
「お師さま」
「皆様」
小丸山に残る人々は窓や門口に集まって、その影が、豆つぶのように小さくなるまで見送っていた。
誰とはなく、
「上人様が、都へお立ちなされたそうな――」
と里へも伝えられて行ったとみえて、国府の町へ来ると、もう、彼の駒の前には、雪など物ともしない民衆でいっぱいだった。
萩原年景は、雪の中を駈けてきて、
「何とて、一夜のお名残も賜わずに」
と、恨むばかりに、別れを惜しがった。
「またのご縁もあろうに――親鸞の慕師の情をゆるしたまえ。親鸞は去るとも、仏果の樹は、もうこの土に成長して見えた。後の守りをたのみまするぞ」
年景は、そういわれて、涙をふいた。
そして二、三の郎党と共に街道を何里となく従(つ)いてきたが、
「尽きぬおわかれ……」
と、暇を告げて、やっと元の道へもどって行った。
古多(こた)の浜からは、路な南へかかる。
裏日本を背にして、次第に信濃路へ入ってゆくのだった。
国境(くにざかい)を越える難路のなやみは、とても想像のほかだった。
親鸞の手も、弟子たちの手も、凍傷で赤くただれていた。
やっと、善光寺平へ出て、人々はややほっとした。
しかし、あれから松本の里へ出て、木曾路の通路(かよいじ)をたずねると、今はまだ、猟師さえ通れない雪だというのである。
生命(いのち)がけで行っても福島まで行けるかどうかという者があった。
(大事なお体に、もしまちがいでもあっては――)と、佐々木兄弟もいうし、木曾路に明るい西仏も、
(引っ返して、東海道へ出たがよい)という意見なので、一行はまた、むなしく善光寺へもどって、さらに、道をかえて、浅間山のけむりをあてに、碓氷(うすい)越えを指してすすんだ。
そして、辛くも、峠をこえ、眼の下に、上野領(こうずけりょう)の南の平野をながめた時は、すでに暦(こよみ)は、二月の下旬で、にわかに暖国の風につつまれた五名は、春に酔うような気持がした。
*「善光寺平(ぜんこうじだいら)」=川中島平ともいう。長野県更級(さらしな)、埴科(はにしな)、上水内(かみみのち)、下水内(しもみのち)、上高井(かみたかい)、下高井(しもたかい)の六郡にわたる平野。標高は三百四十〜四百メートル。名称は平野の中心をなす長野市の名刹(めいさつ)善光寺にちなんでいる。