筑波の山の影が、田水に落ちていた。
親鸞は、泥足を洗って、
「アア、今日もよい一日を送らせていただいた」
と、腰を伸ばした。
草庵へ帰っても、
「愚禿の親鸞には、いとも覚つかない大任ですが、今日も御力をもって、よい教化の一日を暮させていただきました」
弥陀如来の壇に灯を燈して、そう感謝しつつ、念仏していた。
その灯影(ほかげ)をのぞいて、
「お上人さま、有難うございました」
「お上人さま、おやすみなされませ」
帰ってゆく百姓たちも、声をかけ、礼拝して、散々(ちりぢり)に、宵暗(よいやみ)の中へ消えて行く。
と――そこへ。
蓮位という弟子の取次であった。
「柿岡在の者が、折入って、お願いの儀があると申して参りましたが……」
というのである。
親鸞は振向いて、
「そちらの涼しい端へ、通してください」
親鸞が、そこへ起つと間もなく、柿岡の庄屋と、二、三人の者が恐る恐る庭先へ廻ってきた。
「ずっと、お上りなされ、なにを遠慮してござる」
庄屋たちは、縁の端へうずくまって、
「いえもう、夜になりましたゆえに、ここでお願いだけをいわせてもらいまする」
「この親鸞に、おそろいで、願いとは何事な」
「先ごろ、世間のうわさでは、お上人様が、大沢の池に棲んでいる恐ろしい魔主(ぬし)を、念仏の功力でお払いくだされたとかで――えらい噂でございます。わしのほうの柿岡でも、念仏でなければ極楽へは行かれぬと、皆がにわかに説教場をこしらえ、そこへぜひお上人様に時折来てもらって、有難い法話を聞かせていただきたいものじゃと申しまするので。……いかがでござりましょうな、村の者一同のおねがいでござりますが」
と、こもごもに頼むのだった。
親鸞は、すぐ承知して、
「参りましょう」
と答えた。
あまりにかんたんに承知してくれたので、使いにきた庄屋たちは、かえって意外な顔をしたが、親鸞は、それは当然自分のするおつとめであって、頼まれるまでもなく、そういう気持を抱いている人々のいる村なら、どんな都合をくりあわせてもすすんで行くというので、庄屋たちは、
「なるほど、うわさに違わぬ上人様じゃ」
と、よろこんで日やその他の打ち合せをして、いそいそ帰った。
と、須弥壇のある一室には、いつものように、上人を囲んで夜語りを聞こうとする百姓たちが、もう八、九名つめかけていたが、柿岡の者が帰ってゆくと、すぐ親鸞を囲んで、
「お上人様、なぜ柿岡へゆくことを、承知してやったのでございますか」
「なんとかいって、後からでも、お断りなされたほうがようございます」
と、不安に満ちた眼をしていった。
親鸞は、顔を振って、
「なんの、ああいう頼みでは、千里の旅でも、断れぬ。――あなた方はまた、なんでわしを止めなさるのか」
「でも……」
と、口籠っていたが、顔を見あわせた後、一人が膝をすすめて言った。
「お上人様のお命を狙っている者がござりますでな。……ご油断はなりませぬぞ」