「葬儀」には、どのような意味があるのですか。

 大切な方を亡くす悲しみは、本当に計り知れなく深いものだと思います。

また、親や伴侶など、大切な方を亡くすことで初めて、それまで共に過ごす中で受けていたご恩や、その人によって自身が支えられていたことに気づいたりすることがあります。

そうすると「もっと、あれもこれもしておけばよかった」とか、「〇〇してあげられたかもしれないのに…」という後悔の念がわいてきて、なんともやりきれない気持ちに包まれたりするものです。

 そこで、亡き方を偲び、心をこめた葬儀を勤めることで、そのやりきれない気持ちを打ち消したり静めたりしようとするのは、ある意味、当然なことなのではないかと思います。

 仏教各宗派においては、檀家・信者・門信徒の方が亡くなられた時には葬儀を行いますが、浄土真宗はその際に用いるお聖教や作法だけでなく、葬儀に対するあり方そのものが他の仏教各宗派とはいささか趣を異にしています。

最大の違いは何かというと、亡くなられた方の追善供養をすることが目的ではないということです。

その理由は二つあります。

 一つは、浄土真宗の門信徒は、阿弥陀仏の「念仏せよ、救う」という本願の教えを信じ、念仏を称える者は、迷いのこのいのちが終わったその瞬間、阿弥陀仏の願いのはたらきによって極楽浄土に生まれ真実のさとりを開きます。

 このことを親鸞聖人は「本願を信じ念仏を申さば仏になる」と端的に述べておられますが、そのため、葬儀の際に僧侶や遺族がお経を唱え、その功徳をふり向けて亡くなられた方の成仏を祈ったりする追善供養を目的にはしないのです。

 二つめは、浄土真宗における礼拝の対象は阿弥陀仏のみであり、亡くなった方ではありません。

 亡くなられたかたは、いのち終えられた瞬間に仏さまに成っておられるのですから、その仏徳を讃嘆することが大切なのです。

 このことから、浄土真宗の葬儀では、尊いいのちを終えて今は阿弥陀仏の浄土に生まれて仏さまと成られた方の遺徳を偲び讃嘆供養をすることがその目的になります。

 改めて浄土真宗における葬儀の意義を確かめると、亡くなられた方の立場からいえば、阿弥陀仏の本願念仏のはたらきによって往生の素懐を遂げることができたことに感謝を表すためであり、葬儀を主導する導師(僧侶)の立場からいえば、亡くなられた方に代わって報恩感謝の読誦讃嘆(読経)をするためだといえます。

 また、これをご遺族や会葬者の立場からいえば、亡くなられた方をご縁として、生死無常のことわりに目をむけ、阿弥陀仏のみ教えに耳を傾けることの大切さを再認識するためだといえます。

 このような意味で、浄土真宗における葬儀は、亡くなられた方に対する追善供養や単なるお別れの場ではなく、縁ある方が集い亡き方を追慕しながら無常なる人生であることに頷く共に、既に仏さまに成られことを讃嘆しつつ、自身の仏縁を深める大切な機縁だといえます。