親鸞 2016年10月8日

「この阿女(あま)っ」

不意だった。

ぐわんと、鼓膜がやぶれるほど、お吉の横顔を撲りつけて呶鳴った者がある。

 二十七、八の壮(さか)んな筋肉を持っている男だった。

職人烏帽子を後ろへ落し、仕事着の片肌を脱いでいて、汗の光っている毛穴には、鋸屑(のこぎりくず)がたかっていた。

お吉の亭主の平次郎なのである。

「あっ――皆さん」

お吉は、隼に見込まれた小鳥のように、よろめきながら、綱曳きの仲間の者のかげにかくれ、

「謝ッて下さいっ、皆さん、良人(うち)のひとへ」

と、もう泣き声だった。

「うぬ」

と、平次郎は、女房のそばへ寄ってきた。

「性(しょう)なしめが」

と、平次郎の手は、すばやくお吉の襟がみをつかんでいた。

そして、大地を引きずり廻しながら、

「いってもいってもこの阿女(あま)は、碌(ろく)でもねえことをしやがって、おれのいいつけを、なんだと思っていやがる」

足を上げて、蹴飛ばした。

「すみません、もう決して、ここへは参りません」

「ここばかりじゃねえ、おれの念仏嫌いを承知のくせに、亭主のいやがることを、うぬは、故意にするのだっ。さっ、きょうはもう勘弁できねえからそう思え」

腹巻から鑿(のみ)を抜いて、右の手にひらめかせた。

「あれっ、助けてっ――」

お吉は逃げ廻った。

人々も、うろたえて、

「あぶないっ、平次さん、そ、そんな乱暴なことをしないでも」

「何をいやがる」

平次郎は、眼をつりあげて、自分を遮る者を睨(ね)めまわし、

「おれの女房を、おれが折檻するのだ、自体、てめえ達が、ばかなお手本を出すからよくねえ」

そういって、

「やいっ」

とまた、お吉の方へ、怖ろしい形相を向け直してわめくのだった。

「あれほど、いっても懲らしても、また家を留守にしやがって、こんな所へ来てよくも粋狂な真似をしてやがるな。……ははア分った。この普請場にゃ、和介の野郎が仕事にきているので、てめえは、信心にことよせて、和介の顔を見に来やがるのだろう。……いや、そうだ、そうに違えねえ」

「ま……なにをお前さん」

「いいや、てめえが、和介の奴に、妙な素振りを見せていることは、おらあとうに知っているんだ。――さもなくて、べら棒め、その日暮らしの貧乏人が、駄賃も出ねえタダ働きをなんでする」

「…………」

「なぜその閑(ひま)に、亭主の晩の足しにでもなるように、魚でも漁(と)るとか、縄でも綯(な)うとか、他人の仕事の縫物でもするとか、小費(こづか)いの多足になることを考えねえのだ――この浮気者め」

鑿を振りかざしたので、お吉は必死にもがいて、平次郎を突きとばした。

「こいつ」

一度、よろめいて、腰をつきかけた平次郎は、起ち上がって、女房の帯際を後ろからつかんだ。