「この阿女(あま)っ」
不意だった。
ぐわんと、鼓膜がやぶれるほど、お吉の横顔を撲りつけて呶鳴った者がある。
二十七、八の壮(さか)んな筋肉を持っている男だった。
職人烏帽子を後ろへ落し、仕事着の片肌を脱いでいて、汗の光っている毛穴には、鋸屑(のこぎりくず)がたかっていた。
お吉の亭主の平次郎なのである。
「あっ――皆さん」
お吉は、隼に見込まれた小鳥のように、よろめきながら、綱曳きの仲間の者のかげにかくれ、
「謝ッて下さいっ、皆さん、良人(うち)のひとへ」
と、もう泣き声だった。
「うぬ」
と、平次郎は、女房のそばへ寄ってきた。
「性(しょう)なしめが」
と、平次郎の手は、すばやくお吉の襟がみをつかんでいた。
そして、大地を引きずり廻しながら、
「いってもいってもこの阿女(あま)は、碌(ろく)でもねえことをしやがって、おれのいいつけを、なんだと思っていやがる」
足を上げて、蹴飛ばした。
「すみません、もう決して、ここへは参りません」
「ここばかりじゃねえ、おれの念仏嫌いを承知のくせに、亭主のいやがることを、うぬは、故意にするのだっ。さっ、きょうはもう勘弁できねえからそう思え」
腹巻から鑿(のみ)を抜いて、右の手にひらめかせた。
「あれっ、助けてっ――」
お吉は逃げ廻った。
人々も、うろたえて、
「あぶないっ、平次さん、そ、そんな乱暴なことをしないでも」
「何をいやがる」
平次郎は、眼をつりあげて、自分を遮る者を睨(ね)めまわし、
「おれの女房を、おれが折檻するのだ、自体、てめえ達が、ばかなお手本を出すからよくねえ」
そういって、
「やいっ」
とまた、お吉の方へ、怖ろしい形相を向け直してわめくのだった。
「あれほど、いっても懲らしても、また家を留守にしやがって、こんな所へ来てよくも粋狂な真似をしてやがるな。……ははア分った。この普請場にゃ、和介の野郎が仕事にきているので、てめえは、信心にことよせて、和介の顔を見に来やがるのだろう。……いや、そうだ、そうに違えねえ」
「ま……なにをお前さん」
「いいや、てめえが、和介の奴に、妙な素振りを見せていることは、おらあとうに知っているんだ。――さもなくて、べら棒め、その日暮らしの貧乏人が、駄賃も出ねえタダ働きをなんでする」
「…………」
「なぜその閑(ひま)に、亭主の晩の足しにでもなるように、魚でも漁(と)るとか、縄でも綯(な)うとか、他人の仕事の縫物でもするとか、小費(こづか)いの多足になることを考えねえのだ――この浮気者め」
鑿を振りかざしたので、お吉は必死にもがいて、平次郎を突きとばした。
「こいつ」
一度、よろめいて、腰をつきかけた平次郎は、起ち上がって、女房の帯際を後ろからつかんだ。