「11月 自他ともに倖せになる道を求めて」(下旬)現代社会の病理を問う

 現代社会の私たちの周りで、自死により大変な数の人が亡くなっています。

虐待、差別、貧困、飢餓、戦争、テロなどのいろんな問題が世界中で起こっています。

6500万人もの難民もいます。

 昨年「風に立つライオン」という映画が上映されました。

100万人が観たそうです。

これは歌手のさだまさしさんが20歳の時にアフリカのケニアで医療活動をした柴田紘一郎という医師に出会って聞いた話に非常に感銘し、15年後に歌をつくり、さらに映画化された素晴らしい映画です。

日本に残してきた恋人へ手紙で「この偉大な自然の中で病と向かい合えば、神さまについて人について考えるものです。

やはり僕たちの国は残念だけど何か大切なところで道を間違えたようです」と伝えています。

このことはずっと私の課題にもなっていますし、この映画を観て困っている地域の医療支援活動に参加する青年が多く出てきたそうです。

それは仏さまが教えてくださる地獄、餓鬼、畜生からの解放をめざす生き方です。

そして、私たちがほとんどしてこなかったという事柄と重なります。

 仏法の信心とは、まことの心のことです。

『凡夫の迷いこころでない、まったく仏心なり』と親鸞聖人の曾孫にあたる人が書いています。

「信心」と書いても何かを信ずるのではなく、仏さまの教えを聞く中から信ずる心を私たちがいただいていくことなのです。

そして、仏さまが心を衆生に与えることを他力といいます。

 「まもられている」と言いますが、これは苦しいことや悲しいこと、病気にならない、不幸なことが起きないということではないのです。

仏さまに護られているということは、仏さまの教えに照らされるということです。

鏡の前に立つと、自分の姿がはっきりと分かるように、仏さまの教えに照らされ、自分のことを知っているということなのです。

 『如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり』という教えがあります。

智愚は賢い者の毒です。

私は賢いのだ、あなたとは違う。

私は間違いないという毒を賢い人は必ず持っています。

いわゆる傲慢です愚かな私たちには愚かな者なりの毒があるということも書かれています。

要するに、賢い者には賢い者のつまずきがあり、愚かな者には愚かな者のつまずきがある。

それを信によって破っていくことが肝要だと言われています。

 宮沢賢治は、岩手県の花巻出身の作家です。

岩手は浄土真宗の信者の多いところで、彼も大変熱心な浄土真宗の家庭に育ち、3歳のときには「帰命無量寿如来」で始まる『正信偈』を暗記していたと言われています。

常々「世界全体が倖せにならなければ、私の倖せはない」と発言していました。

これは菩薩の精神です。

宮沢賢治には、幼いころから培われた親鸞聖人の精神が根付いていたのです。

 最近、菅原文太さん、野坂昭如さん、永六輔さん、大橋巨泉さんなどが亡くなりました。

あの方々の子どもの頃は戦中戦後で大変な時代でした。

みんな共通して「戦争の足音がする」と、最近の世相を憂いて折られました。

今、私たちの国は非常に危険なところにあります。

 お釈迦さまは「殺してはいけない、殺させてはいけない」と言い、イエス・キリストは「剣を捨てよ」と言いました。

でも、戦争が終わることはありません。

しかし、終わらせなければならないと言い続けるのが、私の仏教者としての使命だと思っています。

政治家に期待しますが、心配もしています。

軍事力が拡大し続けたら平和になるでしょうか。

人間は倖せになれるでしょうか。

手に入れた玉手箱の実態に愕然とし、みんなやれやれと深いため息をつく、互いに顔を見合わせて、「こんなはずじゃなかったのに」と感じる昨今です。

 こんな時代だからこそ、親鸞聖人だったらどうお考えになり、どのような行動されるだろうかということに思いを致さずにはおれません。