親鸞 2016年12月9日

 そこに、彼は初めて、ありありと、うわさに聞いていた親鸞の姿を眼に見た。

「ヘ……ヘイ……」

どうしても、面(おもて)をあげることができないのである。

「おもとが、木匠(たくみ)の平次郎か、わしが稲田の親鸞でおざる、よい折に会った、おそろしいことは何もない、いやむしろよろこばしいことすらある」

 人の声か、仏の声か。

 平次郎の耳の垢の隙間から諄々と入ってくる上人のことばは、皆平次郎にとって救いであり慰めであり、そして温かかった。

「――おもと、ふるえているの。そうか、おそらくはなんぞ勘ちがいしてござるのじゃろう、それでは、その恐怖から先に取り除(の)けてあげよう」

親鸞は、諭して聞かせた。

「今朝方じゃった――まだ夜の明けたばかりのころ、この御堂の角に、不愍や、一人の女が悶絶している。誰ぞやと手当してやれば、それはおもとの内儀――このお吉どのだった。お吉さんは、よく稲田のわしの所へも信心に見えられたが、良人の心に逆ろうてはと、ふっつり、足を止めていたのじゃ。わしがその折、御名号を書いて与えたが、見ると、今朝気を失うている折も、確乎(しっか)と、それをふところに抱いていた。

――やがて、弟子衆の介抱で、われに回(かえ)ると、さめざめ泣いてばかりおる。

で――きょうのお式の前にと、別室へよび、仔細をつぶさに話してもらいました。

平次郎どの、わしが証(あかし)を立ててもよい、お吉さんは、おもとの疑うているようなそんな女子(おなご)では決してない。世にもめずらしい仏性(ぶっしょう)の女子じゃ、許してあげてくだされ、そして、愛しんでおやりなされよ」

「…………」

「のう、よいか」

「……ヘ、ヘイ……」

「お内儀、念のため、良人に疑われた品、ここへ出して見せてやりなさい」

「はい」

お吉は、摺り寄って――

「おまえ様……おまえ様は……」

人々の前もわすれて泣き濡れていたお吉であった。

磐石にひしがれたように首をうつ向けている平次郎の前に、名号をくりひろげて、良人の手をつかみ、良人の茫然としている意識を揺り醒ますようにいった。

「わたしが不義をしている――男からの手紙を内密(ないしょ)で見ていると――おまえ様が邪推をまわしたのは、この名号でございまする。……勿体なくも、上人様のお筆でございますわいな、拝みなされ、良人(うち)のひと、これ、よう拝んで、お前様が人殺しの罪に墜ちなかったお礼をいうてくださんせ」

恐々と、平次郎は、顔をもたげ、名号の文字をじっと見つめた。

「おお……」

「わかりましたか」

「……ウム」

うなずいて、初めて彼は、妻の手をにぎり返した。

「……だが、お吉、おらあどうしても、おめえを手斧(ちょうな)で斬った覚えがあるんだが……どこにも、おめえは怪我をしていないか」

「いいえ……。ああわかしました――それではお前様は、御堂の大廂から廻廊の角へ下がっている太竹の雨樋(あまどい)を斬ったのじゃ、それがわたしの身代りになって、今朝までは二つに斬れてぶらんとしておりましたが、お坊さんが、供養式の目ざわりというて外しておしまいなされたのじゃ」

「……あ、じゃあおれが手斧でたたっ斬ったと思ったのは」

「雨樋じゃ、それを、わたしと思うて、勘ちがいしていたのでござんしょう」

「……ウウウ……そ、そうだったか」

肚の底からうめきながら、平次郎は初めて、人間らしい眼が開いた心地がした。