そこに、彼は初めて、ありありと、うわさに聞いていた親鸞の姿を眼に見た。
「ヘ……ヘイ……」
どうしても、面(おもて)をあげることができないのである。
「おもとが、木匠(たくみ)の平次郎か、わしが稲田の親鸞でおざる、よい折に会った、おそろしいことは何もない、いやむしろよろこばしいことすらある」
人の声か、仏の声か。
平次郎の耳の垢の隙間から諄々と入ってくる上人のことばは、皆平次郎にとって救いであり慰めであり、そして温かかった。
「――おもと、ふるえているの。そうか、おそらくはなんぞ勘ちがいしてござるのじゃろう、それでは、その恐怖から先に取り除(の)けてあげよう」
親鸞は、諭して聞かせた。
「今朝方じゃった――まだ夜の明けたばかりのころ、この御堂の角に、不愍や、一人の女が悶絶している。誰ぞやと手当してやれば、それはおもとの内儀――このお吉どのだった。お吉さんは、よく稲田のわしの所へも信心に見えられたが、良人の心に逆ろうてはと、ふっつり、足を止めていたのじゃ。わしがその折、御名号を書いて与えたが、見ると、今朝気を失うている折も、確乎(しっか)と、それをふところに抱いていた。
――やがて、弟子衆の介抱で、われに回(かえ)ると、さめざめ泣いてばかりおる。
で――きょうのお式の前にと、別室へよび、仔細をつぶさに話してもらいました。
平次郎どの、わしが証(あかし)を立ててもよい、お吉さんは、おもとの疑うているようなそんな女子(おなご)では決してない。世にもめずらしい仏性(ぶっしょう)の女子じゃ、許してあげてくだされ、そして、愛しんでおやりなされよ」
「…………」
「のう、よいか」
「……ヘ、ヘイ……」
「お内儀、念のため、良人に疑われた品、ここへ出して見せてやりなさい」
「はい」
お吉は、摺り寄って――
「おまえ様……おまえ様は……」
人々の前もわすれて泣き濡れていたお吉であった。
磐石にひしがれたように首をうつ向けている平次郎の前に、名号をくりひろげて、良人の手をつかみ、良人の茫然としている意識を揺り醒ますようにいった。
「わたしが不義をしている――男からの手紙を内密(ないしょ)で見ていると――おまえ様が邪推をまわしたのは、この名号でございまする。……勿体なくも、上人様のお筆でございますわいな、拝みなされ、良人(うち)のひと、これ、よう拝んで、お前様が人殺しの罪に墜ちなかったお礼をいうてくださんせ」
恐々と、平次郎は、顔をもたげ、名号の文字をじっと見つめた。
「おお……」
「わかりましたか」
「……ウム」
うなずいて、初めて彼は、妻の手をにぎり返した。
「……だが、お吉、おらあどうしても、おめえを手斧(ちょうな)で斬った覚えがあるんだが……どこにも、おめえは怪我をしていないか」
「いいえ……。ああわかしました――それではお前様は、御堂の大廂から廻廊の角へ下がっている太竹の雨樋(あまどい)を斬ったのじゃ、それがわたしの身代りになって、今朝までは二つに斬れてぶらんとしておりましたが、お坊さんが、供養式の目ざわりというて外しておしまいなされたのじゃ」
「……あ、じゃあおれが手斧でたたっ斬ったと思ったのは」
「雨樋じゃ、それを、わたしと思うて、勘ちがいしていたのでござんしょう」
「……ウウウ……そ、そうだったか」
肚の底からうめきながら、平次郎は初めて、人間らしい眼が開いた心地がした。