「不可思議光」のはたらき

 南無阿弥陀仏という仏さまは、親鸞聖人が「色もなし形もましまさず、しかれば心もおよばず語もたえたり」と述べておられるように、私たち凡夫には覚知することができません。

 そこで、そのはたらきをいろいろな表現をすることによって阿弥陀仏とはどのような仏さまであるかを推し量ろうとすることになります。

 それが『正信偈』冒頭の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」などの表現です。

 ここで阿弥陀仏は「無量寿如来」「不可思議光(如来)」と表現されてます。

 後者の「不可思議光」とは、どのようなはたらきなのでしょうか。

 『長阿含経』という経典の中の『世記経』に八大地獄の第一として「想地獄」があげられています。

 経典によれば、人がその「相念」によって生きはじめるとき想地獄がはじまると説かれています。

 この想地獄のすがたについて『世記経』には、次のように説いてあります。

いかんぞ想地獄と名づくるや。

そのなかの衆生の手に、鉄爪(てっそう)を生ず。

その爪、長利にして、たがいに瞋忿(しんぶん)す。

毒害の相をいだき、爪をもって相いかく。

 想地獄の住人は、すべて鉄の長く鋭い爪をしており、出会うもの同士すべてが互いにその長い爪で切り刻み合うといわれています。

 「出会うもの同士すべてが互いにその長い爪で切り刻み合う」というようなあり方は、私たちとは無関係な世界でのできごとのようですが、実はこれは私たちの現実のすがたそのものを物語ったものなのです。

 「想念」とは、自分の欲望の対象として他人を見たり、自分の欲望を満たす手段として他人を扱うというあり方のことです。

 他人を自分の欲望を満たすための手段として扱うということは、その人の人格を無視して、自分の都合や自分の欲望で切り刻むということにほかなりません。

 昨年は、年明けから週刊誌によって著名人のスキャンダルが次々と報じられました。

 時にはそのことによって犯罪が露になり、逮捕に結びつくということもありましたが、その一方で決して法律を犯している訳でもなく、また世間に迷惑をかけている訳でもないのに、私的な事柄を興味本位に書き立てるような記事も少なからず見られました。

 本来なら、そのようなあり方は人びとから嫌悪され非難されるべきかと思われるのですが、「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」と言われるように、それが他人事であるが故に、むしろ面白がられたりすることもありました。

 そればかりか、時には多くの人びとが、マスコミ報道によって俎上に載せられた人を無責任に非難したりすることさえあったりもしました。

 これは、まさしく自分の想念という鉄の爪によって、その人を切り刻む行為だといえます。

 あるいは、もっと身近なところでいうと、私たちは周囲の人に対しても自分の想念によってそれらの人たちのいのちを切り刻んでいたりすることがあります。

 たとえば、よその家庭の良いさまを目にすると「自分の家庭もあのようでなくてはならない」と無意識のうちに決めつけ、親なら親に対して、あるいは夫や妻、兄弟姉妹、子どもに対しても、一人ひとりに自分の身勝手な思いを押しつけ、自分の思いと違うと暴言を浴びせるなどして、長く鋭い鉄の爪でそれぞれのいのちを切り刻んでいたりするのです。

 しかも、他の人びとを自分の欲望を満たすための手段としてしか見ることができず、そのように扱っていると、いつの間にか自分自身の人生そのものも、欲望を満たすための手段としてのみ生きるあり方に陥っていくことになります。

 私たちは、誰もが日々の生活を精一杯生きています。

 ですから、「毎日、本当によく頑張っておられますね」と言われると、誰もが「はい!」と笑顔でお応えになると思います。

 けれども、「はい!」と応えたその後に、すかさず「でも、人間だから、いつか必ず死にますよね」と言われると、もうその後には言葉が続きません。

 「確かに…」とつぶやく中から、「では、いったい私は何のために頑張っているんだろう…」とか、「私の人生とは、いったい何なのだろう」いう疑問がわきおこり、答えが出せないままだと途方に暮れるざるをえませんし、最後は「空しかった」の一言に人生のすべてが納まってしまうことになります。

 近代は、デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉で始まったと言われていますが、少なくとも私たちは「我思う」ということを、自分が生きていることの根本に据えながら生きています。

 そのため「自分に忠実に」というときも、それは自分の思いのままに生きることだと信じています。

 そして、たとえ周りのすべてを疑うということがあったとしても、疑っている主体である自分自身や、あれこれ思い計らっている自分自身そのものを疑うということは決してしません。

 どこまでもまず「私」というものがあり、生きてゆく一番中心に「私」というものを据えて、その「私」というものから周りの人やものを見ているのです。

 ところが、そのような自身のあり方に自ら気付き得ないが故に、自分の欲望の対象として他人を見たり、自分の欲望を満たす手段として他人を扱うというあり方に陥ってしまうことになるのです。

 実は、このような私たちの想念、常に自分を中心に据えて、絶えず他を身勝手な思いで切り刻む心を根底から打ち破り、いのちの本来に呼び返すはたきをなすものこそ不可思議光のはたらきであるといわれます。

 これからの一年、いろいろな仏縁を通して、お念仏の教えに積極的に耳を傾けて頂きたいものです。

 

 

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。