お釈迦さまの時代のインドには、伝統的なバラモン教があった他、それを否定する自由な思想家が多数輩出していました。
そのような中にあって仏教は、それらの思想を批判し乗り超えて行く中で新たに説かれた教えだといえます。
その際、仏教徒は他の教えと仏教との根本的な違いを四つ(または三つ)の項目にまとめ、他の教えと区別する際の目印にしました。
これが、「四法印(三法印)」と呼ばれる教えです。
「印」とは旗印を意味し、その思想が仏教であるか否かを判断する大切な基準となりました。
したがって、その教えが自らをどれほど仏教であると主張しても、四法印に照らして違う点があれば、その教えは仏教とは認められないことになります。
仏教と他の教えとを分かつ「四法印」とは、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」で、「三法印」という場合には「一切皆苦」が省略されます。
この「四法印」の第一番目に置かれているのが、「諸行無常」です。
「諸行」とは、すべての現象のことです。
また、「無常」とはこの世のすべての現象は、たとえば神の意志といったような一切を超えた何ものかによって支配されたり動かされたりしているのではなく、種々の原因や条件(縁)によって形作られているのであり、常に消滅変化していくのであって、何ものも永遠不変ではありえないということを明らかにしています。
この仏教の「無常」の思想を見事に説き明かしているのが、よく知られている「いろは歌」です。
いろはにほへと ちりぬるを (色は匂へど散りぬるを)
わかよたれそ つねならむ (我が世たれぞ常ならむ)
うゐのおくやま けふこえて (有為の奥山 今日超えて)
あさきゆめみし ゑいもせす (浅き夢見じ酔ひもせず)
この七五調四句からなる今様形式の歌は、近代まで文字を習う時の手習い歌として長らく用いられてきました。
その意味は、
花はどんなに美しく咲いたとしても、やがていつかは必ず散っていくものです
この世において、たとえ栄華を誇ったとしても、それがいつまでも永遠に続くことはありません
有為転変(この世のすべての存在や現象は、さまざまな原因や条件によって常に移り変わるものであり、少しの間もとどまっていないこと)の迷いの世界を、今日、超えることによって
浅はかな夢を見ることもなく、迷いの根源である無明の酔いに、もはや迷うということもありません
というもので、「すべては移り変わり永遠なるものはない」ことを、みごとに説いています。
ちなみに、この「いろは歌」は、『涅槃経』の中の「無常偈」として知られている
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
の意味を説いたものだといわれています。
「無常偈」は、「羅刹と雪山童子」の物語として、お釈迦さまの過去世の物語、いわゆる本生説話として伝えられています。
それはどのような物語かというと、
昔、雪山(ヒマラヤ)に雪山童子と呼ばれる求道者がいました。
童子は、すべての人びとを救うために、自分を犠牲にして顧みることなく、あらゆる苦行に励んでいました。
帝釈天は、そのような童子の真摯な求道の姿を見て、その決意のほどを試すために、恐ろしい羅刹(鬼)に姿を変えて、童子の前に姿を現しました。
そして、過去世の仏説かれた偈文の前半
諸行は無常なり、是れ生滅の法なり
(この世の一切は無常であって、すべては一瞬としてとどまることなく流れている。生あれば必ず滅がある。これが一切の法を貫く真理である)
と唱えました。
雪山童子は、これを聞いて大いに喜び、この教えこそが長らく自分が求めてきた真理だと覚りました。
そこで、童子は羅刹に偈文の後半を教えてほしいと懇願します。
ところが、人の血と肉を食べて生きる羅刹は「自分は今、空腹で心を乱しているので、願いを聞くことはできない」と拒絶します。
それに対して童子は、「私の肉体をあなたに捧げますから、どうか続きを教えてください」といい、合掌して跪きました。
羅刹は童子の決意が揺るぎないことを知り、
生滅を滅し已りて 寂滅を楽と為す
(生にも滅にも惑わされない縁起の法を知り、生滅を滅しさることによって、心の迷いの一切が破れ、
永遠に迷うことのない完全なる寂滅を楽しむことができる)
と、後半の偈文を説きました。
そして、羅刹は約束通り、童子の肉体を求めました。
童子は、自らのいのち引き換えに獲得したこの偈文を人びとに伝えるため、周辺の石や壁、道や樹木に書き留め、約束を果たすために高い木に登って地上へと身を投げました。
ここで羅刹は、帝釈天の姿に戻り、空中で童子の身体を受け止めて地上に置いた。
という物語です。
この雪山童子こそ、後のお釈迦さまだと経典には記されています。
真実の教えに出会うことが、いかに難しく希有なことであるかを知らされる物語です。
早いもので、気がつけば今年ももう後半に入りました。
日々の暮らしに追われるように生きていると、あっという間に一日が、一週間が、一月が、一年が過ぎていくように感じられます。
だから、この夏もいつのまにかあっと言う間に過ぎ去って、やがて「あの夏」になってしまいます。
でも、この夏は、私の人生においては、二度とやってこない夏です。
すべてものが移り変わって行くからこそ、一度きりのこの夏を、そして今を大切に生きたいものです。