幼いころ、寝る前にいつも母から本を読んでもらっていました。
母がいない時には、父が読んでくれました。
また、祖父母の家に泊まりに行くと、祖母は口伝の鹿児島の昔話やとんち話を聞かせてくれました。
時には、叔父が不気味な写真の載った怖い話の本を読んで聞かせるので、怖くてなかなか眠れなかったりすることもありました。
たくさんのお話を読んでもらったのですが、その時の絵本が数冊、今も本棚に収まっています。
記憶の中にも好きな本の得やフレーズが残っています。
何度も読んだことがあっても、お気に入りの本は毎回飽きることなくお話を楽しんでいました。
ケーキやパン、お菓子がお話の中に出てくると、もう寝る前だというのにお腹が空いてきて、描かれた絵をうらやましそうに眺めていたものでした。
今でも、本屋で小さな頃に出会った絵本と同じ作品を見つけると、なつかしくなり、つい手に取ってしばらく読んでいたりします。
ところで、1冊だけ、どんな話なのかよく意味が分からないまま大事に持ち続けている本があります。
宮沢賢治の『なめとこ山の熊』という作品です。
当時3歳か4歳の私に、父がよく読んでくれました。
でも、幼い私の耳に届いてくる言葉は難しくて、つまらなかったからかすぐ眠ってしまい、1ページ目だけしか記憶がない作品です。
それでも、好きな箇所がありました。
父が『なめとこ山の熊』と題名を言って読み始めます。
その時、私の頭の中では、父がよく食べていたなめたけを思いながら、言葉の響きを聞くのがといも好きだったので、お話が始まる前に、私の気持ちは既に満足していたのかもしれません。
最近になって、改めてというより、初めて『なめとこ山の熊』を自分で読んでみました。
1度読んでもなかなか言葉や内容が入ってこず、そのまま2度、3度と読み直しました。
今読んでも難しい作品のように感じました。
ひとことで、「こんなことを伝えたいんだろうな」と要約することができないほど重く深い話でした。
粗筋を絵本に書かれた言葉を引用して言い表すと
「他に生きていく手立てを持たぬがために、仕方なく熊を殺して生計を立てていた熊取りの名人が、人を殺したくて殺すのではない熊のためにいのちを落としていく」
という内容です。
この話の展開の中で、熊と人間の関わりを通して、生きていく上での厳しい現実が描かれています。
つながりを通して向き合っていく生きとし生けるすべての命が、存在するために抱えている問題等をテーマにした作品なのではないかと感じました。
決して、「殺された熊がかわいそう」「熊に殺された人間がかわいそう」ということを言いたい話ではないと思います。
ぜひ、機会があれは読んでもらいたい作品です。
宮沢賢治が書いた言葉を通して、この作品にふれとほしいと思います。
『なめとこ山の熊』を読み返す中で、私は今は亡き父がどんな思いの中でこの作品(本)を選び買い求めてきたのか、読んでくれていたのかということを考えました。
それは、私がたずね明らかにしていくべき事柄であるように感じています。
そういう足どりの中で、何かしら気付くことがあるのかもしれません。
だとすれば、幼い日に父から一冊の本と共に贈られたその願いによって、今でも私は日々育てられ続けているのではないかと思います。