古くから仏教に伝わるたとえの一つに「盲亀浮木」といわれるものがあります。
ある時、お釈迦さまが次のように問われました。
「比丘(仏弟子)たちよ、たとえばここに一人の人がいて、一片の軛(くびき : 牛、馬などの大型家畜を犂や馬車、牛車、かじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具)を大海の中に投げ入れたとする。そして、その軛には、一か所だけ孔(あな)があいていたとする。
また、ここに一匹の目の見えない亀がいて、百年に一度だけ海面に浮かんできて首を出すという。はたして、この亀が海面に浮かんできた時、その軛の孔に首を突っ込むというようなことがあるだろうか」
すると弟子の一人が「お釈迦さま、もしそのようなことがあるとしても、それはいつのことになるかわかりません」と答えました。
それに対してお釈迦さまは
「比丘たちよ、その通りである。だが、百年に一度だけ海面に浮かぶ目の見えない亀が軛の孔に首を入れることよりも、なお希有(けう:めったになくめずらしいこと)なることがあると知らなければならない。それは、一たび悪しきところに堕ちたものが、ふたたび人の身を得るということは、さらに希有だということである。」
このお釈迦さまのたとえは、「有り難う」という言葉の語源になったといわれています。それは、このたとえの真意を後代の仏教徒が、次のような偈をもって言い表し、今日に至るまで唱え続けられていることからも知ることができます。
「人身うけがたし、今すでに受く。
仏法あいがたし、今すでに聞く。
この身、今生において度せずんば、
いずれの生においてかこの身を度せん」
これを意訳すると、「私たちは今生まれ難い人間に生まれ、あい難い仏法に出あい、今その教え聞いている。このいのちのある間に覚りを得ることができなければ、次にいつ人間に生まれ、仏法にであい覚りを得ることができるかわからない。かならず、この機会に覚りを得なければならない」ということになります。
ところが、私たちは今ここに人間としてこの世に生を受けていますが、「これまで人間に生まれたことを喜んだことがありますか」と問われると、気がつけば私は既に人間として生きていましたから、よほど何か特別なことがなければ、自分が人間として生まれ、人間として生きていることに喜びを感じることはないかもしれません。
私たちは、自分が今ここにこうして生きていることをあまりにも当然のこととしています。そして、普段の生活の中ではしばしば自分と他人を比較し、幸福と不幸の間をいったりきたりしながら、何となく何かが足りないと思い悩んだりしています。そのため、その足りない何かを求めては右往左往しています。
この「何かが足りない」という思いは、言い換えると「何が足りないのか分からない」ということです。自分がいったい何を求めているのか分からなければ、つまるところ何を手にしたとしても、決して本当の意味で満たされるということはないのではないでしょうか。このように、求めても求めても決して満たされることのないままに空しく過ぎていくあり方を仏教では「空過(くうか)といいます。」
源信僧都は「宝の山に入りて、手を空しくして帰ることなかれ」と述べておられます。思い返せば、日常においては当たり前のように電気や水道等のある生活をしていますから、テレビを見たり、水を飲んだり、風呂に入ったり、自動車で移動したりする度、そのことについて特別な喜びを感じることはありません。けれども、台風等の自然災害によって、電気や水道、ガスなどが止まったりすると、途端に生活に支障をきたしてしまいます。そのため、それらが復旧すると、日頃いかにそれらによって支えられ快適な生活を送ることができているかを知らしめられることになります。
私たちは、仏法を聞くことによって初めて、人間に生まれ仏法を聞くことのできる人生は、まさに「宝の山」であることを知り、だからこそ真実の宝である「南無阿弥陀仏」のはたらきによって、このいのちが終わるとき、「空しかった」という言葉で砕け散っていくのではなく、人生最高の「成仏」というかたちで成就していくいのちを生きる私となることができたことを心から喜びたいものです。