平成30年6月法話 『一人では何もできない お陰さま』(中期)

私たちは、生きる上でいろいろなものを利用しています。

身近なところでは、洗濯物を乾かす時には太陽の光を利用していますし、電気を起こす際には水力・風力などを利用しています。

この他にも、石油・石炭をはじめいろいろなものを利用して生活していますが、この「利用」するとうことは、「自分のために役立てて使う」ということです。

これに対して、仏教では「受用」という言葉があります。

生きるということは、何かを利用することではなく「受け用いる(受用する)こと」だというのです。

例えば、私は今こうしてこの身を受けて生きているのですが、気が付いた時にはすでに自分として、あるいは人間として生きていましたから、そのことを何か特別なことだと思ったりしたことはありません。

けれども、仏教では人として生まれることは、決して当たり前のことではないととらえ、受け難い身を受け、今こうして生きていることの有り難さに目覚めよと教えています。

つまり、受け難いいのちをこの身に受け、生きるための力をいただいて生きている事実を「受用」という言葉で明らかにしようとしているのです。

このような意味で、私たちが日々生活するということも、本来は身に受けている「生を活かすこと」に他ならないのです。

ともすれば、私たちは生活するということは、自分の思い描いている夢を追い求めたり、実現しようと努力したりしていくことだと考えがちですが、じつはそうではありません。

この身に受けているいのちを本当に活かしていく、その活かすということがまさに「生活する」ということであり、「受用」ということなのです。

したがって、「受用」ということの意味を実感するためには、まず自分の身に受けているものをしっかりと受け止めるということが必要になります。

ところで、「受用」ということは言葉の表面だけを見ると、「受」という言葉があることから受動的なあり方、あるいは自分というものを抑えた消極的な生き方のことだと想う人もいるかもしれません。

もし「受用」とはそういうあり方だとすれば、これからの社会においては、自分の個性を主張して積極的に何かを創造していくような生き方が必要だという主張が評価されていますから、現代社会には受け入れられないように思われます。

けれども、受用とは決して受動的でも消極的なあり方でもありません。

なぜなら、何か新しいものを作り出すということは、今までなかったものを自分の能力で、あるいは自分の知能を駆使して作りだすことではないからです。

何より、誰もが「素晴らしい」と、心から感動するようなものを作り出すときには、そこに「受用」という精神がはたらいている必要があります。

したがって、この「受用」とは、決して「受け身」ということではなく、本当に自分がそのことを受け取ったとき、私が受け取ったものが私を通してはたらいていくということなのです。

世界的な作曲家であった武満徹さんは、いつも「作曲というのは何もないところから頭を絞り出して作るのではない。

すでにこの世の中に満ち満ちている音を聞き取ることなのだ」と語られ、「そのためには耳を澄ませて、世界に満ちている音を、この身体に享受することが大事だ。

ほんとうに優れた作曲家というのは、じつはほんとうに優れた聴衆なのだ」と、おっしゃっておられたそうです。

また、榎本栄一さんは、

自分がどれだけ

世に役立っているかより

自分が無限に

世に支えられていることが

朝の微風(そよかぜ)のなかで

わかってくる

と、詠んでおられます(『群生海』)。

私たちの心を癒し和ませてくれる美しい花の存在は、土・水・光など自然の恩恵、あるいは心を込めてお育てくださった方のご苦労があったからです。

「それらが目に見えますか」と問われると、花を通して直接見ることはできません。

けれども、見ることはできませんが、その事実が確かにあることは、「聴く」ことによって、おぼろげながら感じることはできます。

この目に見えない事実を「お陰さま」といいます。

私たちは、仏さまの教えを聴くことを通して、「一人では何もできない」という自らの身の事実に頷くと共に、「無限に世に支えられている」ことが少しずつわかってくるのだと思います。