平成30年8月法話『お盆 亡き方が結ぶ人の縁』(中期)

以前葬儀は自宅で営まれていましたが、各葬儀社が競い合うように斎場を建てはじめると、その利便性からほとんどの葬儀が斎場で営まれるようになりました。

また、斎場ができた当初は、どちらかといえば会葬者の多い葬儀が一般的でしたが、いつの頃からか「家族葬」という言葉が聞かれるようになると、大半の葬儀は家族葬で営まれるようになりました。

この「家族葬」という言葉は、葬儀社の方に聞いても「定義付けが難しい」とのことで、当初はこの言葉をそのまま狭義に解釈して、家に一緒に住んでいた人だけで親の葬儀を営み、親戚の誰にも葬儀の連絡をしないばかりか、親が亡くなったことさえ伝えていなかったので、後日そのことを知った親の兄弟弟妹から苦情が殺到したという話を聞いたことがあります。

また、施主の中には「費用の安い葬儀=家族葬」と思っていらっしゃる方も少なからずいらっしゃるそうです。

けれども、葬儀は昔から相互扶助といった側面があり、会葬者が一定数いると、持って来られた香典を葬儀の経費に充当することができて助かるのですが、家族葬は必然的に会葬者が少なくなり、それと連動して香典も少なくなるため、期待したほどには費用の自己負担額が減るわけではなかったりするようです。

ところで、「家族葬」といっても、一緒に住んでいた家族だけの葬儀という場合は珍しく、親戚の方くらいまでは会葬しておられる葬儀が一般的です。

そのため、葬儀は結婚披露宴などと並んで、日頃はあまり寄り合うことのない親戚同士が集まって顔を合わせるまたとない機会になっているようです。

同様に、お盆には遠方に住んでおられる方も休みを取ってふるさとに帰ってこられます。

そのような意味で、葬儀とお盆は「亡き方が結ぶ人の縁」だということができます。

また、葬儀は頻繁にあることではありませんが、お盆は毎年のことですから、まさにお盆は家族、親戚だけでなく、知人・友人なども亡き人を縁として結ばれる尊い機会だといえます。

ところで、お盆は一般に亡き方や先祖を供養するための行事として受け止められています。

この場合、供養の内容は、「私が仏事を営みその功徳を先祖に振り向ける」というもので、これと併せてお墓参りをしたりお仏壇に供物をあげたりすることで、先祖の霊が慰められるのだと理解されています。

けれども、浄土真宗ではそのような理解の仕方はしていません。

まず、亡くなられた方をどのように受け止めているのかというと、仏教は「仏と成る」ことを説いている教えですから、当然のことながら仏さまになっておられるのだと受け止めます。

よく亡くなられた方に「安らかにお眠りください」とお声かけなさる方がいらっしゃいますが、もし亡くなられた方が安らかに眠っておられるのだとすると、その方は決して仏さまになっておられるとは言ません。

なぜなら、仏さまとは「迷えるものを決して見捨てることができない」「必ず救わずにはおかない」と躍動されるのが、仏さまが仏さまたる所以だからです。

また、お浄土に往くことを「往生」と言いますが、この往生の「往」は、「往って還ってくる」という時の「往」で、還ってくることを前提しています。

したがって、お浄土に往かれた方は、阿弥陀如来の願いのはたらきによって真実の覚りを開いて仏と成ると、すぐにこの人間世界に還ってこられ、縁ある人々から救おうとしてはたらいておられるのです。

そうすると、亡くなられた方のことを語る場合、私を離れてその方のことを語っても全く意味がないといえます。

今、私がこうして仏縁に出会っていることを自覚するとき、その尊いご縁を結んでくださったのがまさに亡き方であり、その方が仏さまとなられたからこそ、私は死別の悲しみをくぐって尊いみ教えを聞く身になれたのだと喜ぶことができるのです。

親鸞聖人が亡くなられた方のことを先祖ではなく「諸仏」と呼ばれるのは、この事実を深くうなずいおられたからに相違ありません。

お盆には、多くの方が亡き方や先祖の方を偲ばれますが、では残りの日々、私たちはどれほどそういった時間を持っているでしょうか。

亡き方々を思えば思うほどに、いかにお盆以外の日々、私は亡き方々から案じられ、念じられ拝まれているか、ということに深く心寄せたいものです。