平成30年8月法話『お盆 亡き方が結ぶ人の縁』(後期)

誕生日といえば、どんなことを思い浮かべられますか。

花束やケーキ、プレゼント、家族や友人とのお誕生日会などでしょうか。

私事ですが、お盆の真っただ中が誕生日です。

皆さまもご承知の通り、お盆といえばお寺が最も忙しい時期の一つです。

その為、誕生日の思い出が殆どありません。

皆が慌ただしく動きまわり、私自身が僧侶となってからは尚のこと、数日過ぎた頃に思い出すといったことが繰り返されています。

誕生日ケーキの甘い香りというよりは、お線香の香りに満たされる日、それが私の誕生日であり、お盆です。

そんなお盆ですが、今でも忘れられないご縁がございました。

ある年のお盆、その期間に合わせるように台風が直撃しました。

合羽を着て、足袋の替えを用意し、早朝からお参りへと出発しました。

視界も悪く道中も難儀しますし、雨具の装着や足袋の履き替え等、余分に時間がかかってしまい、時間がたつにつれ、いつも以上に疲労が濃くなっていきます。

恥ずかしい話ですが、こうなると、私自身の立ち居振る舞いにも若干影響が出てきてしまいます。

疲れの色が表情に出てしまったり、お経を読む声量が落ちてしまったり・・・

そんな時に一軒のお宅に寄せていただきました。

玄関へ入るなり驚きました。

畳が廊下一面に立てかけてあるからです。

事情をお伺いすると、台風の影響で雨漏りが酷く、対応している最中とのことでした。

時間を変更して、後ほどお伺いしようかとご相談をすると、もう準備は出来ているから是非お願いしますとご返答をいただきました。

仏間に入ると、畳のあげられた床にシートと座布団が敷かれ、ご家族ご親戚の皆さまが整然とお座りになっていました。

天井を見ると、雨が漏れてこないようお仏壇の周辺のみが手を加えてあります。

何れの仏縁も大事な時間ではありますが、お盆は親戚一同の方々が集まり、往生された命を偲ぶことができる数少ない時間です。

どんな状況であれ、皆でお迎えをするという姿に、私にとっては何十件もお参りさせていただく一日であっても、そのご家庭にあっては大切な年に1度しかないご縁であるということを、私自身の姿を振り返りながらお参りさせていただきました。

毎年お迎えする「お盆」ですが、この言葉を聞けば、自然と往生された方々の姿を思い出し、生前の思い出や言葉、姿を思い返すことはないでしょうか。

先人たちが何故、「お盆」を大事に伝えてこられたのか、それは命の繋がりを確認し、命の行く末を聞かせていただける場だからです。

日常の暮らしの中で、命を見つめる機会の少ない私であるからこそ、お盆や法事といった、大切な方が自らの命でもって知らせてくれたこの仏縁が、気付きを与えてくれるのです。

お念仏「南無阿弥陀仏」は、この世の縁が尽きる時、必ずお浄土に生まれさせていただくという教えです。

どんな命も見捨てられることなく、必ず仏となっていく命の知らせがここにあります。

しかし夏になると、肝試しや幽霊の話をお聞きすることが増えてきますが、私は怖いというよりも、寂しく悲しい気持ちになります。

なぜかというと、自分にとって不都合なこと、都合の悪いことや嫌なことを亡くなった方に押し付けてまで自分の幸せを求めているような気持がしてしまうからです。

そんな空しく悲しい命があっていいのでしょうか。

自分さえよければ、他はどうでもいい、亡くなった命はどうでもいいという

ことで本当に幸せな人生・社会と言えるでしょうか。

私は一人で生きていると思っていても、目に見えない繋がりやご縁の中でお互いに助け合い、支えあいながら命をいただいています。

だからこそ、今、生きているたくさんの命と、先に仏となられた、たくさんの命の繋がりを知らせていただく、皆が揃ってお迎えさせていただく「お盆」が大切なのです。

お盆の時期に、手を合わせたとき、どんな思い出が浮かんでくるでしょうか。

南無阿弥陀仏