「生きる」ということ

一昨年の夏、本が大ベストセラーになり、昨年の夏に映画化されて大ヒットした「君の膵臓をたべたい」という作品があります。

実は、昨年の夏、映画館で予告編を見た気がするのですが、その時は観に入った目的の映画の方に関心が向いていたのと、漠然と見ていたせいか衝撃的なタイトルから苦手なホラー映画と勘違いして、観ようという気持ちが起きることもなく、タイトルだけが漠然と記憶に残りました。

その作品が、今年の6月、契約している衛星放送で9日に放映されるという予告が流されていました。

その中で、男の子が女の子に「君は本当に死ぬの」と問うと、女の子が「死ぬよ」と答える場面がありました。

その時の女の子の表情がとても印象深かったので、とりあえず予約録画をして、翌日何となく観たのですが、深く感動すると共に、いろいろと考えさせられることがありました。

同じ日の午前と午後の2回観たのですが、観終わったあとすぐに思ったのは「映画館で観なくて良かったかもしれない…」ということ。

それは部屋で観ていて、2回とも溢れる涙を抑えられなかったからです。

映画の中では、膵臓の病気で余命がわずかという少女に向かって、「仲良し」の同級生の男の子が「君にとって生きるってどんなこと」と問う場面があります。

その少女は、余命数年と医師に告げられてから、自らの死を強く意識し、いわば死の側から生を見つめるという生き方をしてきているので、彼女の思う「生きる」ことについて次のように答えます。

 

誰かと心を通わせること…かな
誰かを認める
好きになる
嫌いになる
誰かと一緒にいて
手をつなぐ ハグをする すれ違う
それが生きる。
自分一人じゃ 生きてるってわからない
そう…
好きなのに嫌い
楽しいのにうっとうしい
そういうまどろっこしさが
人との関りが
私が生きてるって証明だと思う
だから… こうして君といられて良かった
君がくれる日常が
私にとっての宝物なんだ

 

彼女の言葉を聞きながら、「自分はどうなんだろう…」と、思わずにはおれませんでした。

幸い生まれてからこれまで、まだ一回も死んだことがないので、正直「死ぬ」ということはどれほど想像しても分りません。

では、それなりに生きてきたのだから、「生きる」ということは分るのではないかと問われると、案外それも難しいものです。

けれども、生きているのですから、「生きるとは…」と改めて考えてみると、この人生は見直すことはできてもやり直すことはできない。

私の人生を生きて行くのは私以外にはなく、私の人生は誰も代わってもらうことはできない。

生まれた以上、必ず死ななくてはならない。

けれども、いつどのような形で死ぬか分らないという、四つの制約を受けていることが知られます。

私たちは、生の側から死を見ようとしますが、仏教では自分が必ず死ぬという所に立って、死の側から生を見ることを教えています。

そして、死ぬからこそ本当に生きる道を聞くことの大切さを語りかけています。

この映画の別の場面で、少女は仲良しの男の子に「君の一日も、私の一日も価値は一緒だよ」言います。

確かに、私たちは自分の余命を知らないだけで、自分だけはまだまだ未来があるかのように錯覚しています。

けれども、お互いに知らないだけで、もしかすると今夜終わるかもしれない今日を生きているのです。

もしまだこの映画(「君の膵臓をたべたい」)をご覧になっていなければ、ぜひお勧めします。

「生きることの意味」「時間の大切さ」などを考えたり、気付かせたりしてくれる素敵な作品です。

できれば、一回だけでなく、数回観るとより深く味わえると思います。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。