2019年5月法話『話したい人がいるという幸せ』(中期)

2017年に国立社会保障・人口問題研究所が実施した「生活と支え合いに関する調査」によれば、65歳以上の独り暮らしの男性で、家族を含む人と毎日会話をする人は半数に満たず(49%)、15%、約7人に1人は2週間に1回以下しか会話をしていないことが明らかになっています。

この調査で定義している会話とは、直接対面して行う会話だけでなく、電話で行う場合も含んでいるので、約7人に1人の一人暮らしの男性高齢者は、2週間に1度も誰からも電話がかかってくることもなければ、自分から誰かに電話をすることもなく、また自分の家を訪れる人もなければ、誰かに会いにったりすることもなく、ましてや近所の人と挨拶をかわすこともなく暮らしているということになります。

これは、男性だけに限ったことではなく、独り暮らしの高齢女性で、毎日会話をしている人は62.3%で、男性よりは多いものの、3分の2以下にとどまっています。

また、内閣府が2015年に実施「高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」によると「家族以外に相談あるいは世話をしあう親しい友人がいるか」という質問に対し「友人がいる」と回答した人は73.1%で、日本の高齢者の4人に1人は「頼れる友人がいない」と答えています。

平安時代に源信僧都の著された『往生要集』の中に「我今帰(われいまき)する所なく、孤独にして同伴なし」ということが述べられています。

同伴者というのは、悲喜を共にする者のことで、私の喜びを共に喜び、私の悲しみを共に悲しんでくれる者のことです。

そういう同伴者を見出すことのできないあり方が、八大地獄の一番底にある「無間地獄」に堕ちた者の姿です。

それは言い換えると「孤独」ということです。

この「孤独」ということについて『勝鬘経(しょうまんぎょう)』という経典に、「孤」と「独」に分けてそれぞれの意味が説かれています。

経典によれば、「孤」とは「孤立」ということです。

それは、周りに誰もいないのではなく、たくさんの人がいるにもかかわらず、その誰からも理解されることもなければ、誰にも眼も向けてもらえない状態のことです。

また、「独」の方は「独居」ということで、文字通り独りきりということです。

こちらは、誰も周りにはいない状態のことをいいます。

どちらも孤独を感じる寂しいありさまですが、孤独の中身を分けるとそういったようなことになります。

私たちは、「人」として生まれ「人間」として生きているのですが、「人間」とは「人の間」と書くことから分るように、まわりの人と繋がって初めて「人間」として生きていくということが始まります。

そのような意味では、人間はそれこそ誕生して以来ずっとお互いに繋がりを求め合ってきた存在だということができます。

それは、裏返して言うと、人間は孤独になるとき、ただ独りきりになるのではなく、人間でなくなってしまうのです。

現代は、少子高齢化が深刻な社会問題となっていますが、その根底に「語り合える人のいない」孤独な生活を送る人が少なからずいるという危機的な状況があります。

私たちが「生きる」ということは、具体的には「誰かと心を通わせること」です。

私たちは、何か嬉しいことがあったら、それを誰かに語りたくなります。

見知らぬ他人からすれば、それがどんなにささいでちっぽけなことであったとしても、あの人にもこの人にも…と、その喜びを伝えたい人がたくさんいれば、幸せな気持ちに浸ることができます。

けれども、どんなに嬉しいことがあったとしても、それを伝えたいという人が誰もいなければ、かえって空しくなります。

また、どんなに辛いことや悲しいことがあったとしても、「あの人に聞いてもらえたら…」という人が1人でもいれば、私たちは何度でも立ち上がることができます。

あなには、嬉しいことや悲しいことがあったとき、それを話したい人がいますか。

もし1人でもそのような人がいれば、あなたの人生はとても幸せに満ちていると言えるのではないでしょうか