先日ある方のお葬儀をお勤めさせていただきました。
よくお世話になっているご門徒さんの息子さんでまだ高校を卒業したばかりという方でした。
事故による突然の訃報ということもあり、私自身驚きました。
諸行無常という事について普段からお聞かせ頂いているつもりでしたが、いざ自分の身近な人がそうなると、まさかあの人がということを思ってしまう私でした。
そして、お通夜の席でお勤めをし、お話をさせて頂きましたが、なかなか言葉が出てきませんでした。
ご両親をはじめ、お葬儀に参列されたご親族やご友人、関係者の方々の涙を流している姿をみると言葉が見つからなかったというのが正直なところでした。
様々なお葬式をお勤めさせて頂く中に、どうしても遺族の方と同じ立場に立てない自分がいることを知らされる思いです。
遺族と同じ立場に立つ、同じ悲しみに立つことが出来るのならば、そこから生まれてくる言葉があるのかもしれません。
しかし、どこまでいってもそこに立つことが出来ない私であるように思いました。
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
これは浄土真宗の開祖・親鸞聖人がおのこし下さいましたご和讃です。
私の口から言うのは恐れ多いことですが、親鸞聖人はこのご和讃の中で「小慈小悲もなき身にて」とご自身の相を歎かれております。
小慈小悲とは限りのある慈悲と頂いております。
一緒に暮らしている家族との訃報ともなれば悲しいですし、それ以外にも大切にしている物事が失われていけば、やはり悲しいです。
ですが、それが他者のもの(普段関係が薄い人や繋がりのないもの)だと、その悲しみは可哀想という形で生まれてくるのかもしれません。
それが私の慈悲心の限界ではないかと思います。
そのような私が今悲しみの中にいる当事者と同じ立場に立つというのは難しいことなのかもしれません。
ですが、だからこそ、その悲しみに触れる、聞いていくことが大切になっていくのかもしれません。
大切な方を亡くされた方の言葉や行動に触れることは、そのまま悲しみにふれるということ、引いては慈悲心の一旦に触れることではないかと思う今日この頃です。