『仏教聖典』に、
災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。
内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。
と説かれています。
災いというのは、病気・天災・盗難など人を不幸にする出来事で、いわゆる予期しない形で降りかかってくる災難のことです。
そうすると、この言葉の前半部分は、子どもの頃から科学的な教育を受けている現代の人々にとっては、「災いが東や西の方角から来る」つまり、日の吉凶や方角の是非などによって災難に遭うというのは、いかにも迷信的な考えで、自分たちはとは無縁なあり方ではないかと思われるかもしれません。
なぜなら、科学教育では「結果には必ず原因がある」という因果の法則を教えます。
そこで、私たちは何らかの事象が起こると、その原因を理性的に分析し合理的に判断して結果に至るまでの過程を明らかにしようとします。
したがって、台風や地震、落雷や感染症の流行などを神仏の怒りだと考えたり、不都合な出来事の原因を日の吉凶や方角の是非、先祖や怨霊の祟りだと考える人は、誰もいないのではないかと思われます。
ところが、現代社会においても依然として迷信はなくなっていません。
時折「先祖供養をしてもらえますか」という問い合わせの電話がお寺にかかってくることがあります。
その大半は「最近、いろいろうまくいかないことが続いたので、見てもらったら“先祖の供養をしていないからだ”と言われたので…」ということが発端です。
科学教育を受けているため、因果の道理は理解しているはずなのですが、自分にとって不都合なことが起きると、順境にある時は受け流したり否定するような迷信的な助言を素直に受け入れてしまうのです。
いったいなぜなのでしょうか。
それは、科学的な因果の道理は、理性的な判断が及ぶ範囲に限定されるからです。
例えば、それまで健康であった人が突然、現代の医療ではまだ解明されていない原因不明の病におかされたとします。
そこで、なかなか病気が治らないので占ってもらったところ、「お墓の建て方が悪いからだ」と言われると、その人が科学教育によって培ってきた理性的判断はもろくも崩れ去って、「病(結果)」と「お墓(原因)」がいとも簡単に結びついてしまうことになります。
これが、経典が示している「災いが東や西の方角からくると思っている」という在り方です。
そして、自分の身に不都合なことが起きると、そのように思ってしまう人が未だに多く見られます。
仏教は、そのような誤った因果の見方を「愚かである」と、明確に否定します。
私たち凡夫の大きな弱点は、超能力的な力に極めて弱いことです。
そのため、奇跡的な出来事や魔的な事柄に惑わされる心によって、容易に迷信的な因果の道理に陥り、理性的判断ができなくなってしまうのです。
そこで、自分にとって不都合なことは、外からやってくるのではなく、自身の愚かさに起因していることに気づかせるために「内を修めないで外を守ろうとするのは誤り」だと教えているのです。
それは、自分の心をしっかりと見つめよということです。
仏教は、どこかの誰かのことを説いているのではなく、この私を明らかにする教えだといわれます。
そうすると、仏法を学ぶことによって私たちは、本当の私自身に出遇うことになるのだと言えます。
では、本当の自身とはどのような私でしょうか。
親鸞聖人は、「無明煩悩は私たちの心身の隅々まで満ちており、欲望が渦巻き、いかり、はらだち、ねたみ、そねむ心ばかりが、たえず私の心にあらわれて、臨終の瞬間までとどまることを知らず、決して消えることはない」と自らの心を深く慚愧しておられます。
私たちは、他人の悪口は嘘でも面白く自分の悪口は本当でも腹が立ちます。
またお世辞とわかっていてもほめられると嬉しいものです。
ところが、仏さまの教えを聞き、自分の心をしっかりと見つめると、自己中心的で愚かな私であることに気付かされます。
そのため、積極的に教えに耳を傾けようとする人は少ないのですが、けれども教えを聞かなければ、私たちは自らのあるべき姿もまた見失ってしまうことになります。
病院が体の健康を保つ場所であるとするならば、仏法を聞く場所である寺院は心の健康を保つ場所と言えるかもしれません。