2019年10月法話 『とらわれないとは握りしめないこと』(中期)

私たちは、誰もが自らのいのちを日々精一杯生きています。けれども、その内実を開いてみると、いのちの事実を生きているというよりも、どこまでも「自分の思い」ばかりを大切に生きていることが知られます。実は、私たちが生きていく中で、この「自分の思い」というものほど怪しいものはないのです。

「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉があります。「循環」というのはぐるぐる回ることで、「彷徨」というのはさまようことです。砂漠や雪野原など見渡す限り何も目印のないところで、自分の思いだけを頼りに歩いて行くと、自身ではまっすぐ歩いているつもりでいても、200m進むと必ず横に5mずれてしまうのだそうです。しかも興味深いのは、利き腕の方にずれてしまうことです。200m進むと横に5m曲がってしまうのですから、ずっとまっすぐに歩いているつもりでいても、いつの間にか円を描くような歩き方になってしまい、結局出発地点に戻ってしまうことになります。歩いている途中に何か歩みを確かめる目印があればよいのですが、何もないと自分の感覚ではずれていることが全く分かりません。そのため、相当な距離を歩いたはずなのに、結局元の場所に戻ってきてしまうのですが、元の場所に帰ってきたということにさえ気付かないままぐるぐる回り続けてしまう在り方を「循環彷徨」というのです。

これが私の生き方に重なってしまうと、それぞれ一生懸命生きてきたはずなのに、ふと立ち止まって人生を振り返ってみると、いったい自分は何をしてきたのか、これまで何のために頑張ってきたのかということが分からないまま、同じところをぐるぐる回り続けるような生き方に終始していたことに気付き、愕然としてしまうことがあったりします。

それは、私たちが物事を見るとき、常に「自分の思い」で見ていたからです。仏教では、すべての行為を自分の意識を離れてみることがない在り方を押さえて「不離識」と言いますが、私たちは常に自分の思いによって見る在り方にとらわれ、そこから離れることができないのです。

そのため、日頃私たちは周囲の人に対して「自分の思い」という物差しでそれぞれの人を測り、「この人はこんな人」といったレッテルを貼っていたりします。そして、自分の一方的な思いだけでその人のことをすべて理解したつもりになり、常に「自分の思い」というところに立って褒めたりけなしたりもしています。

また、このような「自分の思い」を仏教では「我執」というのですが、この我執によって周囲の人と自分とを比較しては、優越感に浸ったり劣等感に苛まれたりしています。私たちは、「自分の思い」にとらわれて、その見方を握りしめていることに気付かないまま、自らのいのちを日々精一杯生きているかのように錯覚しています。

では、そのように「自分の思い」ばかりを大切に生きるあり方を離れるにはどうすれば良いのでしょうか。残念ながら「「不離識」という言葉で教えられているように、私たちは自分というものを離れてものを見ることはできません。けれども、あたかも「循環彷徨」のような生き方に陥っていることに思いが至れば、人生の目印を求め手にすることで、進むべき方向を見失うことなく歩き続けることは可能です。

私たちの「人生の目印」とは、尊い仏さまの教えであることは言うまでもありません。その目印は、ただ「聞法」によってのみ手にすることができます。縁ある方のご法事や彼岸会・報恩講・永代経法要など、様々な仏事の場でみ教えに耳を傾けることを通して、自分の思いにとらわれて生きる自分の姿を省み、進むべき方向を見失うことのない生き方をしたいものです。